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帝国の騎士10

 水飛沫を上げて、カンザスの体が泉に飲まれていく。

 薄緑の瞳が迫りくる清らかな泉に大きく見開かれた。

 それよりも大きく開いた口からとんでもない絶叫が飛び出した。


「ぅぅぅぅわっっっっ!」


「おっとっ!」

 

 またしても浅い泉に溺れそうになったカンザスの顔が泉の水面と口付けする、その寸での所でアクラスがその肩を抱きとめた。

 咄嗟の行動で九死に一生を得たカンザスは出来の悪い操り人形のようにだらんとアクラスの逞しい腕に引っかかった。

 その腕に全体重を預け、カンザスは安堵の息を吐いた。

 中腰の無理な体勢のまま、カンザスを上手にキャッチしたアクラスは驚いたように、その紫の瞳を見開いたが、そんな顔すらも人を引き付けるのだから始末に悪い。

 さも驚いた顔を浮かべ、その実カンザスがこうなることをずっと前から分かっていたように屈託なく笑みを零す。

 しかし余裕ないカンザスにはそんなことは預かり知れぬこと。

 

「……ま、また溺れるかと思った………」


 震える声がそう告げた時だった。


「ハニーッ!今だっ!!」


 幼い声が空気を切り裂うくように響いた。

 警戒するように二人の背を睨んでいたハニーの手が不意に掴まれる。

 

「……えっ?」


 驚きに身を竦ませた時には、前につんのめる様に踏み出していた。

 激動の運命に一歩踏み出したハニーの瞳に映るのは、木々の隙間から差し込む光よりも眩しく神々しい金髪。

 ハニーを導くように長い髪が宙をうねくる。

 振り返った金髪の向こうで優しい青い瞳が力強く輝く。

 その底知れない輝きが瞬く間に金色の瞳に火を付けた。


「エルッ!」


 見つめ合ったのは刹那。

 その間に全てを理解し合った二人は、ぎゅっと手を握り走り出した。

 ハニーの肩から落ちた濃緑の鷲が寂しげにその翼を広げて、地面へと降り立つ。

 目指すは泉の畔を悠々と闊歩する青毛の馬。

 ハニーの心にはもう迷いはない。

 握りしめたこの小さな手がハニーを何物にも負けない無敵の力をくれる。

 熱い。血が熱され体中を逆流しているようだ。

 弾けてしまいそうな鼓動の音がまるで時を刻むように逸る。

 逸る息に肺が収縮し、息苦しくなってもハニーの足はスピードを緩めない。

 どころか更に風に追いつかんと鼓動と共にその速度を増す。

 だがどんなに早く鼓動を打つとも馬との距離はもどかしいほどに縮まらない。


「待てっ!」


 駈け出した二人の姿に咄嗟にその身を立て直したのはカンザスだった。

 流石、濡れて溺れても聖域の衛兵だ。

 乾いた大地に足を乗せた彼はその瞬間、獰猛な鷲になった。

 眼光鋭くハニーとエルを睨みつけ、身を低く風に逆らい疾走する。

 それはさながら獲物を捉えた血に飢えた空飛ぶ獣だ。

 水際では役に立たない木偶の坊も一度土を踏みしめれば空の王者に勝るとも劣らない騎士へと変貌する。

 無駄のない動きで瞬時にハニーとの距離を縮める。

 その後ろではアクラスが絶妙な笑みを浮かべて、刻々と姿を変える三人を見つめていた。

 蠱惑的な紫の瞳の先、赤と金が夜空を瞬く流れ星のように駆けていき、その星を飲みこもうと雄大な鷲が牙を剥いている。

 そしてその中心。

 そこにいる注目の的はまだ自分に差し迫っている危機に気が付いていない。

 優雅な姿で馬は泉の側を闊歩する。

 細く引き締まった馬の足がゆっくりと泉の淵をなぞるように動く。

 その馬目がけ、ハニーは駆けた。

 途中何度も踏みつけた大地から頭を出す鋭い石に足の裏を傷つけられても止まることなどできなかった。


(……もう、少し……あの手綱を先に……)


 エルと繋がる手をぎゅっと握りしめた。

 その手にあるものだけが確かで、そして命よりも大切だった。

 ハニーは襲いかかる苦痛や恐怖の全てを噛み殺すように唇を噛みしめた。

 焦りに乾く口の中に錆付いたような鈍い味が広がった。

 不快な味が喉を通って、体の中へと入り込んでくる。

 それでもそんなことは些細なことだ。

 未だ両端から迫りくる衝撃に気付かない馬に一縷の希望を見出し、ハニーは自分の全てを賭けて、空いている手を伸ばした。

 その眼前には襲い来る鷲が一羽。

 旋風を巻き起こし、はらりはらちと落ち来る葉すらも薙ぎ払い駆けてくる。


「っっ逃がすかあぁぁぁあぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 伸ばした手に被るように、カンザスの腕が伸びてくる。

 怖い。さっきまで取るに足りない存在だったのに、彼女に手を伸ばしてくるカンザスが凶悪な巨人のように思えた。

 あの眩い眼差しがハニーの取り繕う物を全て見透かし、自分から全てをはぎ取ってしまうのではないか。

 恐ろしいとハニーは本能で感じた。

 胸の内で心臓が逃げ出そうと痛いほどに暴れている。

 緊張による緊張でもう手先すら自分の言うことを聞いてくれない。


(……でも……)


 諦めたら最後。

 この頼りなき細い革の手綱が唯一の打開策だ。

 縋るものなどこの森にはもう一つとして存在していない。

 今この時を逃して他は………。

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