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帝国の騎士9

 冷静な突っ込みにハニーもカンザスも言葉を失って、気まずげに視線を逸らした。

 肌を刺す木枯らしが静かに吹き抜けていく。

 アクラスは爽やかな微笑を浮かべたまま、ゆったりと二人の方へと歩み寄る。

 泉の淵まで来たところで優雅にハニーへと手を差し伸べた。

 まるで貴族の紳士のような滑らか仕草だ。

 空気を撫でるように優しい手つきで差し出された、細長い指の先をハニーは震える瞳で見つめた。

 思わず手を取ってしまいそうになるさりげなさを振り切り、ハニーは警戒心を露わにしてその手から距離を取った。

 全身でアクラスに凄みをかけ、素早く泉から上がる。

 そしてそのまま、後ろ向きにアクラスから遠ざかろうと後ろに一歩踏み出した。

 背中を取られてはならない。

 それは自明の理だ。

 目の前の長身の男は、見た目は穏やかだがその腹の中に何を隠しているか分からない。

 背を見せたら最後、次の瞬間にハニーはアクラスに首と胴を切り離されてしまうかもしれない。

 ごくりと喉を鳴らし、慎重に足を運ぶ。

 全神経を研ぎ澄ましたハニーは後ろにいるであろうエルの気配を懸命に探った。

 背中に感じる熱い視線はきっとエルのものだ。

 とりあえず、この無力な幼子だけは守り抜かなければならない。

 自分の無力を呪うのはこの緊迫した空気が去ってからでも遅くないはずだ。

 この先に待ち受ける未来がハニーに絶望を齎すものでもエルさえ無事ならばそこは地獄とは呼ばない。

 真の地獄に堕ちたことのあるハニーは一寸先も見通せぬ闇とその闇に潜む悪魔の姿を知っていた。


(大丈夫……わたしにはエルがいる。わたしはまだこの子を守るために動ける……)


 そう心の中で呟くと、覚悟を決めるように頷いた。 

 エルは強張った顔のまま、近付くハニーの背をじっと静かに見守っている。

 ただ、その青の瞳は焦燥にかられ、常に冷静な彼らしくなかった。

 もっとも一時の油断さえ許されない現状を考えれば当たり前だ。

 ハニーもさっきまでの冗談のやり取りなどなかったかのように、緊張感に体を強張らせていた。

 燃えさかる金色の瞳が不安に揺れ、生き生きと美しい顔が青褪めている。

 その殺気立った姿にアクラスは苦笑を浮かべて肩を竦めた。

 そして行く当てのなくなった手で髪を掻きあげる。


「そんなに避けられると傷つくな」


 まるでダンスを断られた哀れな男がするように、感傷的に片眉を寄せてみせる。

 彼はきっと自分の魅力を誰よりも知っているのだろう。

 その絶妙な表情が人の心をくすぐる。

 しかしハニーにとっては穏やかな姿をした紳士すら足音を立てて迫りくる恐怖と同じだ。

 冷え切った体を更に切り刻むような無情な風が森を揺さぶる。

 ざわっと揺れた木々から居場所をなくした落ち葉達が彷徨い落ちてくる。

 赤に黄色に、視界を遮るその先にいる普遍の紫が静かにハニーだけを見つめていた。

 落ち葉と共に降り注ぐ麗らかな日差し。

 水面がきらりと儚げに輝く。

 なんと穏やかな光景。

 しかし情緒深い景色に反してハニーの心は冷めていく。

 ハニーの指先が震えるのは寒さの所為か、それとも目の前の騎士の眼差しの所為か。

 怯えに染まったハニーの心などお見通しと言わんばかりにアクラスは哀れむような視線をハニーのみすぼらしい衣へと向けてくる。

 居た堪れないとばかりに首を振ってみせた。


「痛々しいな……」


「同情なんていらないわ」


 それは本音だった。

 ごくりと喉を鳴らし、金色の瞳だけでも強気でいようと険しくした。

 油断させて次の瞬間に飛びかかってくるかもしれない。

 ハニーの体は来るであろう衝撃に備えて厳戒体勢を取る。

 だが次の瞬間、ハニーを包んだのは突き刺さる剣でも猛り狂う拳でもなかった。


(えっ?)


 驚きに目を丸くする。

 それは瞬きをするような一瞬の出来事だった。

 次に瞳を開けた時、ハニーの映す世界で何かが変わっていた。

 それが何か理解するまでハニーは更に三回瞬きをする時間を要した。

 三回目に瞼を開いた時、ハニーは自分の肩に温かな重みがあることに気が付いた。

 そして対峙するアクラスの背にたなびくマントがなくなっていることに。


「い、何時の間に………」


 ふわりとこちらへ投げられたマントはまるで優雅に翼を広げる一翼の鷲のよう。

 威風堂々とハニーの肩に降り立った。

 重厚なマントが濡れたハニーの体を守るように包む。


「我が主人たっての希望です。どうか身につけてもらえませんか?」


 そう言って微笑んだ紫の瞳はどこまでも穏やかだった。

 アクラスの意図が読めずハニーは戸惑うしかない。

 正直濡れて冷えた体にこの厚手のマントは有難い。

 しかしハニーに僅かな優しさを差し出すことは即ち聖十字騎士団に反旗を翻すことと同義ではないだろうか。

 ハニーがこの紋章を背負って森を駆け巡ることは、マントを与えた彼を、そして彼の連れであるツンツン頭の青年を追い詰めることに他ならない。

 そんなことはハニーですらすぐに考えつくのに、この見た目にも思考回路が涼しそうな騎士がそれに気が付かないはずがない。

 それなのに、何故…………。

 今まで分かりやすい悪意しか受け止めてこなかったハニーにとって、目の前の二人の騎士は異質で、それ故に恐ろしかった。

 彼の余裕がハニーの足元を崩し、心を揺さぶり不安定にする。


「な、なんで……?」


 動揺が思わず口から零れた。

 だがアクラスは意味深な笑みを浮かべるのみ。

 細められた紫の瞳に浮かぶかは哀れみか、それとも蔑みか。

 穏やかなのに心を揺らす顔は僅かに天上から零れる木漏れ日の影に照らされ、不穏な影を帯びている。

 その顔が不意に背けられた。

 何も答えずにアクラスはカンザスの方へと振り返る。

 ハニーのことなどまるで頓着しない様子でカンザスに話しかけている。

 まるでハニーなどとるに足りない存在だと言いたげな態度だ。

 ハニーは背けられた広い背中の裏にある彼の本心が気になった。

 その全てを見透かそうとハニーは懸命に瞳を険しくする。

 だが焦燥に駆られた金色の瞳に映るのは、余裕に満ちた広い背中とその向こうにいる濡れたカンザスのみ。

 カンザスは鏡合わせのハニーのように不安定な戸惑いを隠せずに大きな瞳をしきりに動かしていた。

 アクラスはもうハニーには興味などないと言わんばかりの態度で苦笑しながら、カンザスに手を差し出した。


「まったくっ!急に走り出すんだから心配するじゃないか。馬に振り回されるなんて騎士の名が泣くぜ?」


「オ、オレの所為ちゃうわっ!あいつが急に何かを聞きつけて走り出したんやっ!」


 差し出されたアクラスの手を盛大に弾き返すとカンザスは躍起になって、ざばざばと泉の水をかき分けて泉の淵から這い上がろうとした。

 カンザスはそうやって穏やかに踏みにじられるのが何よりも気に食わなかった。

 そんなこと、誰よりも思考が涼しいアクラスが知らない訳がない。

 あえてカンザスの心の琴線に触れて、こうしてカンザスを試すのが彼の定石なのだ。

 そう分かっていても、アクラスの思い通りに行動してしまう自分が悔しかった。

 だが、だからといって差し出された手を取るのも癪に障る。

 そうなるともうカンザスに残された道は胸を暴れる感情のままに行動することのみ。


「助けなんかいらんっ!」


 そう叫び、アクラスから視線を逸らして瞬間だった。

 またしても滑る泉の底に足を取られる。

 あっと小さく息を飲む間もない。

 深い森を映し出していたはずなのに、ペリドットの美しい瞳に浮かぶのは動揺と泉の清浄な水色――――。

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