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帝国の騎士7

 ドクンッ――――――


 燃えさかる血潮が耐えきれずに弾けた。

 清浄な森の泉が残酷な時に凍りつく。

 張りつめた空気があまりに重く、息をすることも叶わないほどだ。

 掴まれた手を振りほどくこともできず、ただ不意に現れた悪戯な運命にハニーは呆然と立ち竦む。

 ハニーの腕を掴むカンちゃん―――カンザスもまさか自分を泉から助けてくれたのが、自分が追っていた存在であるなど思いもしなかったのか言葉なく顔を強張らせている。

 ただアクラスだけが常の余裕と爽やかな男前をそのままに楽しそうにこちらへ向かってくる。


「血に濡れたような赤い髪。鬼気迫って爛々と輝く金色の瞳。月の女王と呼ばれたかつての美貌は様変わりし、禍々しいほど強烈な存在感を放つ魔女………か―――」

 

 泉の淵に片足を置き、近付くアクラスをじっと見つめる姿はまさに噂通りの血に濡れた女王だった。

 差し迫る恐怖にハニーの体が人知れず震え出す。

 だがそんなことは何一つ表情に出さず、ハニーは訪れる異国の騎士を迎え撃つように睨みつけた。

 その眼光をまともに受け止めたアクラスはハニーをからかうようにひゅーっと口笛を吹き、その場で足を止めた。


「近付くことも躊躇してしまう。噂に違わずお美しい」


 その言葉は驚きに満ちているように大層だったが、空々しくハニーの耳には届いた。

 この眼の前の男はハニーのことを恐れている振りをして、心の中で侮っている。

 彼はあの異端審問官のようにハニーの真の姿を正確に捕らえているのだ。

 ハニーの持つ物はこの血に濡れた女王という蔑称だけなのに……。

 その名前の魔力すら役に立たないのであればどうやってこの場を切り抜ければいいのだろう。

 逃げ場を探して視線を彷徨わせたが、それは不意に込められた腕を握る力で泉の方へと戻された。

 びくりと身を竦ませて振り返ると、驚くほどに見開かれた濡れたように輝くペリドットの瞳と目が合った。

 淡い緑と鮮やかな金色が絡まり、弾けて、静寂の森に星が生まれた。


「君が、血に濡れた女王……やと……そんな訳……」


 自分の言葉を打ち消すように何度もカンザスの視線がハニーの細い肢体を往復するが、その瞳はついに確信する。

 自分が握りしめている存在がなんなのか。

 彼が憎んだ罪深き悪魔―――世界に混乱と絶望をもたらす忌むべき存在。

 この魔女をこの世で一番厳粛で神聖な城まで連れ帰るのが彼の命よりも重い使命だ。

 ここに至るまでどれだけ血に濡れた女王の噂を聞いたことだろう。

 その度に何度も心の中でまだ見ぬ敵を思い描き、使命を果たす決意を新たにした。

 その夢想が今現実となった。

 カンザスの目の前にいるのは、燃えるような赤い髪を振り乱し、閃光を放つ金色の瞳を持った華麗な乙女。

 強烈な存在感から目が離せない。

 これが追い続けた渦中の魔女―――エクロ=カナンを未曾有の絶望に叩き落とした非情な女王だというのか。

 目の前の彼女が彼の思い描いていた女王像と重なっていく。


(オレは……オレが思い描いていた女王は冷酷で……禍々しくて……そして………)


 思わずごくりと喉を鳴らした。

 カンザスの思考は袋小路だった。

 ぐるぐると堂々巡りを繰り返す。


(血に濡れた女王は血に染まった髪と狂気に輝く瞳を持ち……そして誰もが平伏す強烈な光彩を放つ……)

 

 カンザスの目の前にいるのはその全てを兼ね備えた魔女の中の魔女――悪魔の女王だった。

 二つの姿が一つになり、揺らぐ心が全てを確信した。


「君……いや……お前が……血に濡れた女王っ!」


 風が弾けた。

 張りつめた空気がうねりを上げ、ハニーに向かって押し寄せてくる。

 押し寄せる風雲が更にハニーを翻弄する。

 今ハニーに出来ることは自分を見上げるその鮮やかな色彩を否定するように金色の瞳をつり上げ、鋭く睨むことだけ。

 しかしその行為が目の前の青年の確信を更に強固に変えていく。

 カンザスの瞳が険しく色を変えていく。

 金と緑――――どちらも鮮烈な輝きを纏い、泉の上で火花が散る。

 感情をそのままに叫んだカンザスに反応するように森の木々が不穏な音をたててざわめいる。

 枯れた落ち葉が耐えきれずに木々を離れ、ゆらゆらと舞い落ちてくる。

 赤い葉がカンザスとハニーのその間でふわりと身を躍らせた。

 葉に隠され、二人のぶつかった視線が途切れる。

 その刹那、ハニーはカンザスの手を打ち払った。

 距離を取るように身構える。

 ハニーの心に共鳴するように細かな雫が飛び散る。

 葉がゆっくりと舞い落ちた。

 二人の視線が再度ぶつかったその時、カンザスの顔色が急激に赤く燃え上がった。

 それはまるで嫌悪する存在を前に激昂した様だった。

 

(来る!)


 ハニーは訪れる戦慄に息を飲んだ。

 冷たく凍える体以上に恐怖に震える心が冷えていく。

 その絶対零度の世界でたった一つ熱を帯びるのは切実な願いのみ。

 ハニーは悲痛な悲しみに眉を寄せて、見えぬ空の向こうに願わずにはいられなかった。


(嗚呼……せめてエルだけは………この愛らしくて温かなこの子だけは無事でいてほしい……)


 自分の背後にいるであるエルの方を振り向く余裕もない。

 ただ痛いほどに注がれるその眼差しに心が痛んだ。

 きっと彼はハニーを縋るように見つめているはずだ。

 エルは出会った時からハニーの心に素直に反応する。

 どれだけ本心を胸の奥底に隠しても、ハニーすら気付かないその色を見抜いてしまう。

 そのエルの瞳を悲しみで染めることなど何があっても阻止したかったのに……。

 無力な自分が震えるほど憎い。

 

(お願い……エル、わたしを置いて逃げてっ!)


 ざばりと泉の水面を盛大に揺らし、カンザスはハニーをびしりと指差して吠えた。


「お前ぇぇぇぇぇぇぇ、服を着ろぉぉぉぉぉぉぉ~!!!!!!」


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