帝国の騎士6
「ぃぃぃいいいやぁぁぁぁっぁ~!!!!」
「ぅうぅうぅぎゃぁぁぁぁぁぁぁ~!!!!!!」
小さな泉に天にも届きそうな水柱が立ちあがる。
溢れかえって干上がってしまうのではないかという勢いで水面が暴れ狂う。
盛大な水飛沫が立ち尽くしたエルの方まで飛んできた。
「ハニー!大丈夫?」
弾かれたようにエルは泉の側へと駆け寄った。
他人が聞けば笑い話のような状況だが、この純真の少年にはその水音さえ世界の終焉を告げる笛の音のように聞こえた。
誰よりも、いや自分の命さえも超えて大切な存在であるハニーが寒々しい姿で凍りつくような泉に飲み込まれたのだ。
ハニーに共鳴するエルの心は泉に負けぬほど波打っていた。
「ハニーッ!ハニーハニーッッ!」
激しく波打つ水面に飛び込みかねない勢いでその淵に駆け寄り、愛しい人の名を呼び続ける。
だが絶望に染まったエルの瞳が捉えたのは、彼の想像に反して騒がしい現実だった。
「ちょっと!なんでこけるのよ!しかも人を巻き添えにして!!」
腰まで水に浸かったハニーは頭からずぶ濡れになって喚いていた。
自慢の赤い髪がいつもよりも色を濃くして彼女の肌にへばりついていた。
襤褸切れのドレスが頼りなく水面に揺れる。
水に浸かっていない上半身を包むドレスが力なく張り付き、ハニーの体は衣を纏っていないようだった。
滑らかな流線を描く胸や腰が顕わになる。
その姿はまるで水辺で戯れる妖精ニンフのように艶やかで、今まさに海から生まれた異国の女神アフロディーテのように煌めく生に溢れていた。
古の異国の神話を知っている詩人ならば百篇の詩で彼女の絶えることない美しさを讃えただろう。
しかし側にいるのは、命の危機から脱却した安堵に心一杯な青年とただ唯一の人の無事に気が気でない少年のみ。
扇情的な姿のハニーに気付かない青年はそのすぐ側でただはぁはぁと息を荒くして、生きていることを実感している。
濡れてもこげ茶の髪はつんつんと上を向いていて、その尖った先からぽたぽたといくつもの雫が零れていた。
その下にあるのは青褪めた童顔が恐怖に強張っている。
濃緑のマントが力なく青年の引き締まった体に項垂れかかっていた。
呆然として焦点の合わないペリドットの瞳が何度も瞬く。
そしてようやっと青年の口から悲鳴以外の言葉が零れた。
「し、死ぬかと思った」
「こんな浅瀬で溺れ死んだら笑い話にもならないわよ」
ハニーは憮然と言い放ったが青年の耳には届かなかったようだ。
「ほんと、こんな所で溺れるなんて器用ね。わたしがいなければどうなっていたか……」
ため息交じりにそう呟いて、呆れるようにハニーは被りを振った。
こまかな雫が赤い髪から飛び散って、少し癖のある髪がくるりとうねる。
その毛先を気にするように指先でぴんっと弾いて雫を拭った。
その瞬間、ハニーの指先がぴたりと止まった。
瞬く間にその表情が凍りつく。
そうだ。今この森にいるのは血に濡れた女王を追う者だけだ。
女王対全ての事象と言っても過言ではない。
彼は聖騎士団の紋章を背負っていないが、エクロ=カナンから遥か遠いガルシアの紋章をその身に纏っている。
ハニーを追っていようがいまいがそんなことは関係ない。
彼は明らかに女王にとっての敵だ。
ハニーは咄嗟に青年から距離を取った。
幸い青年は噂を知らないのか、ハニーが何者であるか気付いていないようだ。
ならばこの隙に森の奥底に消えていくのが得策だ。
何を切っ掛けにハニーを脅かす存在になるか分からない。
素早く水際で心配げにこちらを見つめるエルの方に目配せする。
その縋りつくような弱々しい視線に無言で頷いて見せる。
(早く先に進みましょう。慌てると不審がるかもしれない。ここは穏やかに、そろっと……)
「じゃ、じゃあ風邪引かないようにしなさいよ。わたしは芝刈りの途中なの~ああこの忙しい季節にやんなっちゃう。こんなことで時間を無駄にするなんて!」
態度をころっと変えて、そそくさと泉から立ち上がる。
芝刈りのなんたるかも知らずにさもその道に生きる人間のように振る舞ってみせた。
こんな訳ありの姿で芝刈りもあったものではないが、ハニーは真剣だった。
緊張に強張った顔で、言い訳めいたことを口にするハニーをエルは不安げに見上げている。
半ば呆れた顔には、その嘘くさい言葉を非難する色が浮かんでいた。
(だ、大丈夫。堂々としてたら気が付かないはず……。彼は聖十字騎士団じゃない。きっと森に迷い込んだただの旅人………遠い異国の者までがこの血に濡れた女王の逃亡劇を知っているはずがない。嗚呼……それでも………お願い神様っ!後少しだけわたしに力を貸して!)
叫び出したい鼓動をどうにか押さえつけ、ハニーは神に縋った。
焦げ付く心に金色の瞳が余裕なく揺れる。
青年は呆然としていてハニーが側を離れることになど何の注意も払っていないようだった。
彼の淡い瞳にハニーは映っていない。
ハニーにとってこれ以上の機会はない。
一気に泉から抜け出そうとそのか細く痛々しい素足を泉から上げた。
零れる雫が僅かに降り注ぐ日の光に照らされ優雅に踊った。
(よしっ!このまま一気にこの泉を抜け出そうっ!)
雫を撒き、ハニーの足が淵へとかかる。
その時だった。
ハニーの体が不意に後ろへと引っぱられる。
思いもしない力に腕を絡み取られハニーは驚きと恐怖に体をびくりと竦めた。
弾かれたように振り向く。
淡い赤の髪が豊かに靡くその向こうにいるのは濃緑のマントに身を包み、水を滴らせる精悍に引き締まった顔の青年。
その中心で躍動するペリドットの瞳。
清らかで眩い閃光がハニーの心を射竦める。
「な、何っ?」
「君……なんでだろう………」
大きく見開かれたペリドットの瞳がハニーをその中心に捉えた。
穏やかな湖面に似たその真摯な瞳がハニーを捕えて離さない。
掴まれた二の腕に青年の指が食い込む。
(離して……そう言わなきゃ!)
心が気付いても体がなかなか動かない。
淵にかかった足がまるで石のようだ。
何かの呪いにかかったかのように体が思い通りにならない。
「ハニー、早く!」
エルの懸命な声がいっそ悲痛に響く。
ハニーに救いの手を差し伸べるように、小さな手が一生懸命に自分へと向けられた。
あの手を取らなければ……早くこの手を払わなければ………。
揺れ惑う瞳が救いを求めるようにエルの方へと向けられた。
「オレは君を知っている気がする……」
青年の抑揚なく呟かれる声が静謐の森に消える。
その身を覆う冷気などものともせずに泉の真ん中に立ち竦んでいる。
青年はただ真っ直ぐにハニーにだけ視線を向けた。
「わたしは知らないわ!」
混乱と動揺で余裕ないハニーの叫びが一際大きく森に広がった。
その時。
「………あれ?隅に置けないね~カンちゃんも!よっ!水も滴るいい男!」
透き通る聞き心地の良い男性の声が三人三様の色に呑気に被さった。
弾かれたようにハニーは声のした方へと視線を向ける。
そして瞳に映った人影にその身を凍りつかせた。
(まさか……他にも人がいるなんて………)
恐怖に染まる金色の瞳が捉えたのは、馬の嘶きと共に森の茂みを割ってきた薄茶の髪の男だった。
爽やかに髪を靡かせ、ちょっとそこまで遠出に来たような軽い出で立ちだった。
青年と同じ濃緑のマントをはためかせて颯爽と馬から飛び降りると、男は誰もが親しみを感じる笑顔を浮かべ、こちらへと歩みよって来る。
男が近付く度にハニーの心臓はその鼓動を速めていく。
胸から飛び出しそうな勢いで警鐘を鳴らすこの鼓動を止める術などハニーには知る由もない。
ドクンドクン―――。
鼓膜に響くその音に近付きつつある闇を感じ、ハニーはごくりと喉を鳴らした。
男の穏やかな紫の瞳はハニーを見つめても変わることない。
ゆっくりと歩みより、絶妙な笑顔を浮かべたまま男はハニーの息を止めた。
「男だね~!血に濡れた女王を見つけるやいなや口説きにかかるなんて、さ」






