帝国の騎士5
振り落とされた男はよく見ればハニーと同じ年頃だった。
小柄で童顔な所為かエルよりもいくつか年上な少年かと判断したハニーだったが、瞬時に考えを改めた。
小さな泉に濃緑のマントが漂う。
大きく広がったマントの中央に描かれた紋章には覚えがある。
黒の獰猛な鷲―――それは殺戮と争いを好む恐怖帝国ガルシアの紋章。
眼光鋭い鷲がハニーを追い詰める。
ごくりと無意識に喉を鳴らした。
逃げなければ………。
そう判断して当然の場面だった。
そう、何者かも分からない青年が泉に気を取られている隙に………。
しかしハニーは目の前の青年から目が離せなかった。
エルと二人、ぽかんと口を開け泉の中心を見つめる。
その先では奇異な光景が広がっていた。
「オレはぁぁ!泳げへんねんんん!!ぅぅぅぅぅうううぎゃぁぁぁぁぁぁ~死いぃぃぬううぅぅぅぅぅぅぅぅ~!」
青年は聞き慣れない訛りで喚いた。
さして深くない泉でアップアップと溺れて、必死に両手をバタつかせている。
その必死な姿は同情を誘うが、何故だかもう少しそのままにしておこうかと悪い心がむくりと頭を擡げた。
事実さっきまで硬直していたハニーの体は落ち着きを取り戻し、後どれぐらい持つだろうかと他人事のように青年を観察していた。
もちろんハニーの腕の中にいるエルも似たようなもので、見たことのないおもちゃを前に使い方を考えあぐねているようなあどけない表情だ。
そんな二人の視線にも気付かず、青年は必死に水を掻いている。
盛大な水飛沫が上がる中心を見つめて、充分の間を取ってからハニーはぽつりと呟いた。
「とりあえず立ち上がればいいんじゃない?」
この助言は敵に塩を送る行為になるのか。
それでも言わずにはいれなかった。
ハニーの存在さえ気が付いていなかったはずの青年だが、その言葉にぴたりと動きを止めた。
だが次の瞬間、顔から泉に溺れていく。
さっきまで空中と水中を彷徨っていた彼の腕も水底を掻くのみで、水上に上がることもできないようだ。
「がほっっっ!」
「ちょ、ちょっとっ!どんだけ水泳音痴なのよっっ!!」
「ハ、ハニー、待って!」
ハニーは慌てて泉の方へと駆け出した。
驚いたようにエルがハニーを押し留めるようにその裾に縋ったが、目の前しか見ていないハニーはその手にすら気付かない。
エルの小さな手から襤褸切れのような白の衣が零れ落ちて、揺れる。
止めるエルの声さえハニーの耳には届かない。
目の前にいるのは自分の敵。
それは重々承知していた。
いや、そんなことは関係ないのだ。
今目の前で困っている人間がいるのにどうして手を差し伸ばさずにいれるのか。
「待ってなさい!すぐに助けてあげるから!」
弱りきったはずの体は生命の源を得て生きる潤いを取り戻したのか、さきほどよりも格段に滑らかに動く。
そのまま泉へと躊躇なく飛び込んだ。
体の芯から瞬時に凍りつきそうな寒さに一瞬、びりりと体を駆けあがる痺れを感じた。
だが立ち止まってなどいられない。
水飛沫を上げ青年の元へと水を掻き分け近付く。
自分が思うように前に進まず、絡まり行く手を阻む水がもどかしい。
足止めする水を掻き分け、やっと青年の側まで行きつくと渾身の力を込めて青年の腕を掴んだ。
「早く立ち上がってっ!」
叫ぶのと同時に腕を引き上げる。
凪のような水面の中心がもわりっと大きく盛り上がった。
霧状の飛沫があがり、清浄な森をきらきらと漂う。
(もう少しっ!ここのまま死なれたら目覚めが悪いわっ!)
えいっと掛け声をかけ、最後に残された力を両腕に注ぐ。
盛り上がった水の壁が盛大な音を上げ、壊れ落ちていく。
その激しい滝の中できらりと太陽の閃光のように何かが煌めいた。
(……?)
射抜くその眩しいそれがペリドットに似た人の瞳であると気が付いた時には、立ち上がった水の壁は消え失せ、代わりに時化のようにうねる水面の上にその眼差しがあった。
その強く激しい光に一瞬言葉が詰まりそうになる。
その瞳は大きく見開かれ、ハニーを驚きと共に見つめていた。
「き、君………」
ハニーに導かれるように青年が泉から体を起こす。
そのまま立ち上がろうと青年は泉の底を蹴った。
だが………。
踏み込んだものが頼りなくずれた。
「っへっ?」
いっそ間抜けなほどに不抜けた顔で襲い来る不運に問い返したがもう遅い。
抜かるんだ底に足を取られたらしい青年の精悍な顔が引きつる。
片足が大きく宙を舞う。
(何?)
そう問いかけることすらできない。
ひゅっと息を飲んだ時にはハニーの世界が傾いでいた。
逆立った長い髪が眼前で揺れ、その先に深い森の木々が見えた。
木々の間に間に差し込む光のカーテンが深い緑の葉を幾重にも変えてせる。
視界が淡い水色から濃い緑、僅かに零れる日の光――――。
目まぐるしく色が変わっていく。
世界はこんなにも煌めいているのだと、ハニーはまるで他人事のように自分の瞳に映る世界に見惚れた。
だが彼女を包む世界は彼女の視界に映る姿ほど優しくない。
堪えることもできないほどあっという間の出来事だった。
ハニーがその悲劇に気が付いた時には、青年の細い癖に妙にがっしりした体で泉の底へと押し倒されていた。
金色の瞳が大きく見開かれた。
青年はハニーを道連れに再度冷たい水面に飛び込んだ。