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帝国の騎士4

 更に深い森をどちらに進んでいるかも分からずにひたすら足を向けた。

 延々と同じ景色が続く。

 このまま永遠にこの森は続くのではないだろうか。

 そう後ろ暗い想像に取り付かれそうになるのを懸命に振り払った。


 その時だった。


 覆い茂る森の木々が不意に途切れた。

 その僅かな隙間に鎮座するのは樹齢千年はあろうかというほどの存在感を醸し出す一本の大木だった。

 深い森に包まれ、褪せた緑の中にそれはあった。

 何かを守るように両手を広げたその大木の腕の中――そこにあるのはこんこんと湧き出る清浄な泉だった。

 こじんまりと森の緑に隠れた水面が僅かに木々の間を割って降り注ぐ日差しに煌めいた。

 ハニーとエルが二人がかりでも抱えることの叶わないその大木の盛り上がった根の下に湧き出た泉は深い森の鬱屈とした空気と反して、心が洗われるほどに清らかだった。

 ハニーはその滔々とした水面の輝きに、弾かれたように泉へと駆け寄った。

 血潮が熱く沸き返る。

 どこにそんな力が残っていたのか自分でも分からない。

 ただ本能が水を求めていた。

 もう体中の水分という水分を出し切り、体が干上がっているのことが自分でも分かるほどだった。

 その小さな泉の水はどこまでも澄んでいて、朝の冷気の所為か所々に薄氷が張っている。

 その水を掬って渇ききった喉を潤すとあまりの冷たさに喉が焼け爛れたように思えた。

 それでも夢中で凍える手で水を掬い、喉へと流す。

 水を掬う手が悴んで、赤く腫れても構わなかった。

 水を取るのは何日振りだろう。

 普段何気なく口にしていた生命の源を前に打ち震えそうになる。

 水際のすぐ側に腰を下ろし、ハニーは夢中になって泉の水を飲んだ。

 ただの襤褸切れになり下がったドレスは冷気を帯びた森の空気からハニーを守ってはくれない。

 それどころからハニーの体から体温を奪おうとさえする。

 そんな姿で泉の水を飲むのはある意味無謀なことのように思えた。

 この極限状態でなければ水に触れることすら躊躇するだろう。

 だがハニーは歓喜に震えた。


「エル!あなたも飲んで!大丈夫よ。こんなにも澄んでいるのですもの。飲んでも体を壊すことはないわ」


 じっと水面を見つめるエルを手招きしつつ、ハニーはこの小さな泉から目を離せない。

 本当に今日の自分は運がいい。

 当てもなく彷徨っていたのだが、まさかこんな場所に出るとは予想もしていなかった。

 正直、体力が限界で、信念の強さだけではこの森を乗り切れなくなっていた。

 どこまでも続く喉の渇きをようやっと満足させ、ハニーは自分のいる場所に視線を巡らせた。

 小さな泉を包む木々も岩も苔むし、ここに人の気配が一切ない。

 ただ音もなく湧き出る泉はこの世のすべてと相反する場所にある清らかな空気に包まれていた。

 それは人の干渉を受けていない本物の自然である証だ。

 ハニーにとっては好都合だった。

 これはハニーの想像だが、ああいう騎士団などの大人数が団体で行動する場合、一番に気を使うのは水なのではないだろうか。

 騎士団という性格上、武器などの用具が多くある中、なかなか水を持って移動できない。

 ならば適当な水場を確保して、そこに幕を張って足掛かりにするはずだ。

 ここには馬の蹄の跡も人の足跡もない。

 つまりハニーを追う者がこの泉を知らないのであれば、まだこの辺りまで足を伸ばしていないのだろう。

 それはハニーの心に余裕とゆとりを与えた。

 だがそばにいるエルの表情はハニーと違い険しい。

 泉には一歩も近付かず、森の奥に視線を彷徨わせる。


「ちょっと~エル、どうしたの?」


 いくら呼んでもエルは自身の側に寄ってこない。

 本当に変わった子だ。

 半ば呆れながら、ハニーは苦笑した。


(いつもは素直なのに……時々とんでもなく頑固なのね)


 エルの新たな一面を知る度にもっと仲良くなっている気がして、ハニーは胸の奥から湧きあがる喜びに肩を震わせて笑った。

 そんなハニーとは反してエルは触れれば切れそうな研ぎ澄まされた視線を鬱蒼とした森へと向けている。

 森は息を止めて、ざわりとも動かない。

 まるで絵画のような沈黙が広がる。


「森が静かだ。何かがおかしい」


「えっ?もともと静かよ?」


 エルの言葉が意味するところが分からなかった。

 無意識に聞き返し、エルの方へと振り向いた時だった。

 ハニーは遠くに馬の嘶きを聞いた。


(馬の声………聞こえた……)


 そう理解した時には森を駆ける蹄の音は高らかに、ハニーのすぐ側にあった。

 何かを叫ぶ声も蹄に重なる。

 まるで軽快な行進曲のよう。

 リズミカルに奏でられるその音はハニーにとって、死を告げる鐘の音と同じだった。

 その音はハニーに昨日の悲惨な思い出を思い起こさせ、そのか細い身を戦慄させた。

 治まっていたはずの肩口の痛みがぶり返し、体の震えが止まらない。

 この森にいる者は自分以外皆敵なのだ。

 馬を駆り、自分を探しているのはどこぞの国の聖十字騎士団なのだろう。

 驚きに身を固くした。

 こんなにも包む空気は冷えているのに、焦燥にかられ強張った顔にじんわりと汗が浮かび彼女の痛々しい肌を撫でる。

 咄嗟に頭が切り替わらない。

 潤ったはずの喉から零れるのはヒキガエルのような醜いうめき声だけ。

 それでも逃げなくてはならないと弱った足に叱咤する。

 素早く泉の側から離れ、飛び付くようにエルの方へと駆け寄った。

 刺すように冷たい地面を裸足で駆けるが、そんな痛みなど今は無感覚だ。

 手先も足先も体の全てが緊張に凍えていく。

 ただ心臓だけが燃えるように熱い。

 

「エル!逃げるのよ!!」


 叫ぶのと森の茂みが不穏な音を立てるのは同時だった。

 逃げる間もない。

 茂みに大きな影が見えた。

 熱せられた鼓動が急激に凍りつき、砕けた。


(神様………)


 時すでに遅し。

 祈る言葉すら思いつかない。

 色を失った美しい顔に浮かぶのは絶望のみ。

 全てを失ったハニーはそれでも何かに縋るようにエルを抱き寄せた。

 その刹那、黒い影がハニーの黄金の瞳に映った。


「ううぅぅううぎゃぁぁぁあぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~誰か止めてくれぇぇぇぇぇ!」


 見事な青毛の馬―――――その馬の背では、一人の少年が絶叫を上げていた。


 馬は情けない断末魔と共に茂みを飛び出した。

 そのままハニー達の側をすり抜け、泉目がけて跳んでいく。

 鍛え抜かれた馬のしなやかな肢体が森を舞う。

 優雅に鬣を揺らす様は見惚れるほどに美しい。

 あまりの剛速にハニーは一瞬自分の横を駆け抜けたのはただの旋風だったのだろうかと思ったほどだ。

 零れ落ちそうなほど目を見開いた彼女の前で馬は泉の際に華麗に着地した。

 馬の勢いに押され、泉の水が小波を立て、それでもまだ収まらないと雫となり宙を踊る。

 滑らかな肢体に颯爽とした立ち姿。

 ぶるりと嘶きを上げながら、身を捻じって鬣を振る堂々とした様子に圧倒されてしまう。

 馬とはなんと高貴で美しい生き物なのだろうと呆けるようにそのしなやかな脚線美にハニーは釘付けられた。

 しかし心からその光景に酔えないのは何故だろう。


 ハニーが呆然と眼差しを送る先で盛大な水飛沫が飛び散る。

 ドボンっと派手な音を立て、馬の背から振り落とされた哀れな男が泉に沈んだ。


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