血に濡れた女王1
森は昼間であるにも関わらずどこまでも暗く、陰鬱であった。
北の小国エクロ=カナンの王都ベルゼル。その端に鬱蒼と広がるゴモリの森は、慣れた者であっても奥まで立ち入ることを躊躇する程に深い。
人の手を拒むかのように年中木が生い茂り、日の光を遮る。
一度迷い込めば自らの来た場所も目指す先も、全て忘れてしまう忘却の森。入れば最後、けして生きては帰れないと謂われている。
その森をハニーは懸命に駆けていた。血で汚れた赤い髪を揺らし、道なき道を何かに追われるように森の奥へと走る。彼女を飲みこまんと闇は更に深さを増す。
暗い大地を踏みしめる足には何も履かれていない。身に着けている白い薄手の服はボロボロに破れ、彼女の体の半分も覆っていなかった。滑らかで美しい肌も今はその服同様に薄汚れて、至る所に傷を作っている。
大陸の北に位置する為かどこよりも早く冬を迎えるこのエクロ=カナン。それは無謀としか言いようのない姿であった。
彼女の気品に満ちた美貌は見る影もなく、形の良い眉は恐怖に歪んでいる。
ハニーは焦燥に駆られた金色の瞳で何度も後ろを見つめた。その視線の先、暗い木々の向こうに小さな灯が揺らめく。
一個ではない。数百はあるだろう。その灯は彼女の後を追うように大きくなり、陰鬱な暗い森をゆらゆらと照らす。
近付く度にその数を増す灯、地に響く足音、狂気を滲ませた怒轟。それに捕まれば全てが終わりである。
確実に近寄るその手を身直に感じ、ハニーは恐怖に竦む体を震える手で抱きしめた。
怖い。それは正直な叫びだった。
怖い怖い怖い……また一つと灯を見つける度、ハニーの心が軋んだ。もう限界だった。
だが捕まれば元も子もない。傷だらけの体に鞭を打ち、更に森の奥へと逃げる。
その背に射るような野太い声が響いた。
「出て来い!エクロ=カナンの悪魔!血に濡れた女王!レモリー・カナン!」
深い森をも震わすその怒声に華奢な体をびくりと竦ませた。押し寄せる恐怖に体が痺れて、思い通りに体が動こうとしない。
全力で走ってきた所為か喉が焼けるように痛み、肺が痺れる。体中に焼けるような痛みが広がり、鼓動と共に全身に疼く。
それは彼女に生きていることを実感させ、それと同時に彼女に迫る死の恐怖を更に膨らませる。
はあはあと肩で息をしながら、『血に濡れた女王』と呼ばれたちっぽけな乙女は後ろを振り向いた。
あの灯はまだハニーを見つけていない。だが、それも時間の問題だ。
「どうしよう…?」
気丈なはずの彼女の口からポツリと気弱な呟きが漏れた。強固な信念を宿した瞳が不安に揺れる。
後ろ髪を引かれるように来た道をしきりに振り返るが、もう引き返すことはできない。
追手に捕まれば死は免れない。突きつけられた事実にごくりと喉を鳴らした。
今はただ―――先に進むしか道はない。
道なき道を何かに導かれるように、ただただ胸の奥から湧きあがる激情のまま、血の滲んだ足で森を進んだ。どこに向かっているのか、それすら分からない。
それは絶望への果てのない旅のようだった。
空を覆うほどに深い森には、太古からそこに根をはっているであろう巨木がそこここに立ちはだかり、彼女の行く手を塞いでいる。
何度も木の根に足を取られ、突き出た岩にその身を裂かれた。白い衣はもはや白とは言えないほどに真っ赤に染まり、流れるような髪は血がこびり付いて汚らしくよごれている。
地に落ちた女神。今の彼女はそう表現するに相応しい様相を呈していた。
陰鬱な薄暗さが心に不安のさざ波を立てる。
「ダメダメ!わたしらしくない!」
ハニーは被りを振ると自分を奮い立たせるように勢いよく両頬をパンパンと叩いた。
「わたしは泣く子も黙る血に濡れた女王よ!悪魔に憑かれた女王が気弱でうじうじしてるなんて可笑しいでしょう。癪だけど、あいつらが思う女王を演じてやろうじゃない!」
そうでしょ?エルー?そう心の中で親友に語りかける。
胸にいるのは優しい笑みを浮かべた、誰よりも大切な人。彼女に応えるようにハニーも口の端を上げてみた。
(悲観してる暇なんてない。今は前に進むまでよ!)
顔を上げると、ハニーは自分に言い聞かせるように頷いた。そして更に森の奥深くへと進んでいく。