帝国の騎士2
「ハニー、そろそろ帰ってきて~」
ハニーの気が十分済んだだろうタイミングを狙い、エルはおずおずと口を挟んできた。
一夜一緒に過ごし、少しづつハニーという人間の扱い方が分かってきたのかもしれない。
自分よりもずっと年下のエルに冷静に突っ込まれ、ハニーははたと気が付き、自己嫌悪に陥った。
だがこのままではいけないと心を落ち着かせるため、大きく息を吐いた。
十歳ほどの子どもの言葉にこれほど振り回されている自分が恥ずかしい。
だがこれは自分がしっかりしていないだけではないとハニーは思っていた。
エルには人の心の中にするんっと入ってくる魅力がある。
そう空から降り注ぐ光が当たり前のように目に見えるように、心地よい水がすっと喉を通り体に沁みていくように、それは普遍の事実であるように思えた。
その飾らない笑顔に、穏やかな声についつい絆されてしまうのだ。
(行く末が恐ろしすぎる。これは……この子の両親に会って十分言い含めておかなきゃだわ。このまま何も知らずに成長したら、いつか血を見るわね)
ハニーはちらりとエルを見下ろした。
その視線に気が付いたエルがふんわりと顔をほころばす。
ハニーはその絶妙な笑みの向こうで、成長したエルを何人もの女性が取り合っている姿を見た。
彼女らはエルを取り合って流血沙汰になっているが、中心のエルはそんなことに気付かず、魔性の笑みで更なる被害者を増やしている。
(ダメだわ!これじゃエクロ=カナン始まって以来のスキャンダルよ!)
「エル!どんな過酷な運命になっても諦めちゃダメよ!絶対にあなたのことを分かってくれる人が現れるわ!わたしも少しでも悲劇が起きないように尽力するからっ!」
訳の分からない使命感に駆られ思わず変な決意をし、ハニーはエルそっちのけでうんうんと頷いた。
がしっとエルの肩を掴むとハニーは目頭を熱くさせた。
そして一人使命感にうち震えて、小刻みに体を揺らしている。
これには流石のエルも引きつった笑みで、小さく頷くのみだ。
ハニーの思考は柔軟性に富んだ幼い頭でもまるで理解できないようだ。
このままほうっておくともっとトンデモない世界に迷い込んでいきそうなハニーを元に戻すべく、エルは声を大きくした。
「これからどうする?」
その冷静な声にハニーの訳の分からない思考は一旦動きを止め、はたと正気に戻った。
丁度妄想の世界に迷い込んだハニーはエルに迫る女性たちの間で諌め役を買って出たところだった。
後少しエルが止めるのが遅ければ、ハニーはその女性たちと掴みあいの喧嘩になるところだった。
なかなか現実へとピントの合わない金色の瞳が自分を見上げる青い瞳とぶつかる。
その心配げな色合いに我を取り戻し、急速に自分の存在が愚かしく思えてくる。
羞恥に白く透き通る肌が一気に鮮やかな朱に染まった。
「ハニー、貴女は何を探しているの?」
燃えるように熱くなったハニーの手をぎゅっと握り、エルが重ねて聞いてくる。
その言葉がハニーに現実を思い起こさせる。
自分よりも数倍しっかりしたエルの問いに、ハニーは上ずった声で答えた。
「……失ったもの全てよ。もう二度と戻らないもの全て……。でも全てを元に戻したい」
ぐっと目に力を入れた。
そうでもしないと瞼には、血の雨の向こうに佇む虚ろな親友の姿が映る。
そんな姿が見たい訳じゃない。
それが現実だと心のどこかで確信していても、僅かにある希望を捨てれずにいる。
(エル……あなたは生きているの?いえ、生きていて。わたしの命を全て注ぎ込んでも構わない。あなたが生きていてくれるならば何だってする)
それが願ってはならぬものであっても、今はそんな妄執にさえ縋りつかないとハニー自身を保てない。
胸をついて溢れようとする感情が涙になる前に、ハニーは大きく被りを振って暗い気持ちを打ち払った。
今、この最果ての地でハニーに出来るのはただ城を目指すことのみ。
それがエルの命を繋ぐのだと自分に言い聞かせ、鬱蒼とした森の茂みの向こうにある小さな空を見上げる。
「取りあえずここを離れましょう。出来たらゼル離宮に戻りたいの。そこに全てがある」
「そう。じゃあ行こうか」
何の迷いもなく、一つ返事で立ち上がったエルはにっこり微笑んだ。
そして小さな手をハニーに差し出す。
二人のいる神殿まで森の木漏れ日が差し込んでくる。
その明るく透き通った光を背に受けるエルを眩しそうに見上げ、ハニーは目を細めた。
背から零れる光が翼のようだ。
幾重にも色を変え、ハニーの傷ついた体を優しく包む。
見惚れるように光の中のエルを見つめた。
(彼は本当に天使かもしれない)
先の見えない闇で迷うに彼女に天がつかわした道標。
彼の正体はもしかすれば本当に天使なのかもしれない。
昔乳母に呼んでもらった聖書の絵本に出てくる天使は旅する少年を天界まで連れていった。
その天使のように、この少年も自分も天界のように眩い世界へ連れて行ってくれるかもしれない。
何故だろう。そう思うと心が高鳴り、心が湧きたつ。
自分に都合のいい、夢のような空想にハニーは小さくはにかんだ。
朝の光に透き通った赤がふわりと躍った。
「ふふっ」
「どうかした?」
「何でもない。あなたがまるで天使に見えたから」
ハニーは不思議そうにするエルの頭を優しく撫でてやった。
柔らかな手触りが心地よく、いつまでもそうしたいと思った。
眼を細め、されるがままのエルは困ったように眉を寄せた。
伏せられたまつ毛が朝の日に照らされて、顔に深い影を作る。
「そんな………。僕は天使なんかじゃない」
「ちょっとした夢の話よ。そんな本気に受け取らないでよ~」
「僕が天使じゃなくて、がっかりした?」
縋るようにハニーの手を取り、上目使いに見つめてくる。
その真剣な瞳はハニーの言葉で壊れそうなほど精巧で脆く、小さな肩は少し震えている。
はっとハニーは息を飲んだ。
エルはハニーの言葉に敏感に反応する。
それはもしかしなくとも親に捨てられた悲惨な過去があるからだろうか。
誰かに愛されようと努力しなければ生けていけない世界にいたのかもしれない。
そう思うと居た堪れなくなる。
ハニーはずっと恵まれた環境で生きてきた。
着るものも食べるものも困らない生活を送ってきた。
我儘を言っても聞き入れられる、それが当たり前だった。
でも目の前の少年はどうだろう。
ハニーの言葉一つで表情を変えてしまう彼はハニーと同じように無償の愛を受けて育ったとは言い難い。
エルは愛情に飢え、誰かに認められないと不安で仕方ない境遇で生きてきたのかもしれない。
そう思うと心が悲しみに震えた。
感情のままにエルを抱き締める。
この小さく弱い生き物が愛しくて仕方なかった。
「バカね~。そんな訳ないじゃない。天使みたいに愛らしいってこと!あなたはわたしにとって、天使なんかより大切な存在よ」
どうすればハニーの中の溢れる愛情をエルに分かってもらえるだろう。
ハニーは雄弁に愛を語ることも、この世の素晴らしさを描く能力もない。
ただ抱き締めるだけ。
それしかできない。
でも届いてほしいと願う。
ハニーの腕の中でエルはこそばゆいような、気恥しそうな笑みを浮かべた。
「あなたに出会えてよかった。本当よ?」
昨日は枯れ果てたと思っていた涙が頬を伝った。
清浄な朝の空気にその雫が震え、ぽたりと落ちた。
灰色に凍りついた朝が穏やかに明けていく。
そうだ、わたしは一人じゃない……。