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塔の亡霊8

 サリエは男に背を向けた。 

 闇の中で漆黒のマントが悠々とたなびく。

 もはや話す気はないといった拒絶に男は目を見開く。


「おやおや。初めから私が何も言わないと分かった上でここにお越しになったのですか?なんと酔狂な……」 


 その呼びかけにふと、サリエは足を止めた。

 気だるげに振り向くと、目を眇めて相手を見やる。


「フンッ、くだらない。この俺がお前などに一縷の希望を見出して縋りに来たと思ったのか。女の行方を追う為だけにこんな無駄な行為に時間を費やしているとでも?…………―――それはそれは、俺は偉大な歴史学者様にずいぶんと侮られているらしいな」


「……それでは何故、貴方はこの地獄に足を踏み入れたのです?全てから見放されたこの世の果てに何を求めに来たというのでしょう?」


「大したことじゃない。そう、実に些末で滑稽な理由だ。聖域はお前と女王の邂逅を危惧している。上が煩いので一応の確認に来たまでだ。お前が女王に要らぬ知識を与えていないかを………だが今確信した。お前はあの女に何も話していないのだろう?」

 

 そこまで告げるとサリエは脆い人骨の絨毯を悠然と歩きだした。

 まるでもう興味の欠片もないとばかりの態度だ。

 その背中に男は苦笑せずにはいられなかった。

 自分は聖域の根幹を揺るがす学問を研究し、聖域から生きる地を追われた者だ。

 その事実を知っている者は聖域でも限られた者だけだ。

 彼の知識が在野に広がることを聖域は是としなかった。

 ある日人知れず攫われ、この塔に押し込められた。

 その鮮やかな手腕に、聖域は今まで幾度も同じ手を使って聖域に仇をなす者を屠ってきたのだと知った。

 だがその時にはもう全てが手遅れだった。

 ガクンッ―――耳の奥に響く重々しい音と共に世界の根幹が割れ、男は深遠なる闇の底へと堕とされていった。

 あの時よりもう5年。

 男を知る者は彼を襲った悲劇など露知らず、帰ることのない男を待っているのだろう。

 幼馴染のクレアもきっと、また彼が勝手に旅に出たのだと呆れながら、それでも男のために下手くそなマフィンを焼いているはずだ。

 願わくば、何も知らないであろうその瞳がその真実に気付くことなくあってほしい。

 男のことなど忘れて、幸せになってほしい。

 この暗闇から祈れることはそれが全てだ。

 本当は自分の手で彼女を笑顔にしたかった。

 だがこの地獄で祈るにはそれはあまりに空しく、無謀な絵空事だった。

 男はあの日、全てから消された。

 きっと今まで男が書いた書物類と共に男の歩み全てが無きものにされている。

 男の不在を出来心で探索でもすれば一瞬のうちにその命は果てるだろう。

 徹底的に殲滅する。それが王侯貴族であろうと、権威ある学者であろうと、そして高位の聖職者であろうと変わらない。

 それが聖域の手だ――――。


 だが、目の前の司教は男を知っていた。

 彼は男がどういう理由でもってここに陥れられたかをも正確に把握している。

 聖域が負の事実を関係者以外に告げるなどありえないだろう。

 後暗い事柄を徹底的に消し去る聖域が自分たちに不利な事柄を残すはずがない。

 それともサリエが男の誘拐に一枚噛んでいるのか。

 否、彼はまだ年若い。

 その彼が5年前に男を誘拐するなどの重要にして危険な任務を負わされるはずがない。

 男は目まぐるしく思考を動かし、何一つ見逃してはならないとサリエを頭の天辺からつま先まで見つめる。

 サリエは男を小馬鹿にしている節があっても男を軽蔑しているように見えない。

 サリエは男のことを確実に知り、男を取り囲む世界を知り、そして今の実情を知り、その上で感情なく男に相対している。

 きっと彼には全てが見えているのかもしれない。

 蔑む訳でも哀れむ訳でもなく、ただ一人の人間として男に向かい合うこの年若い司教に男は心底恐怖した。

 クワインのサリエ、なんと末恐ろしい男なのだろうと。


「貴方は何なのでしょうね?貴方は私が怖くはないのですか?」


 去りゆく背にそう問わずにはいられない。

 枯れ果てて爛れた喉が何かを求めるようにごくりと鳴った。

 もう水を求めることすら望まなくなった体がサリエの言葉を渇望する。

 毅然とした姿が足を止めた。

 その背が背負う黒衣で大きく、真っ赤な花十字が揺れた。

 殉教の象徴である赤は闇に染まることなく、色鮮やかに彩光を放つ。


「怖い?俺がお前の何に恐怖するんだ?所詮お前も同じ生きた人間。まあ、その人を凌駕する生命力を生み出す執念には驚嘆するが、それ以外何がある。…………この世にはもっと恐ろしいものが存在する」


 抑揚なく、しかし凄然とした声が男の身を貫いた。

 何故こんなにもこの朽ちた身が震えるのか。

 もう心など枯れ果てたはずなのに、それなのに目の前のサリエを前に震えが止まらない。

 これは赤い髪の乙女を迎えた時の悦びなどではなく、人類の生理的な恐怖であると男は思った。

 サリエの言うように彼もまた生きた人間だ。

 そう、生きているが故に彼には幾重もの制限が課せられている。

 この生という鎖から解き放たれた時、彼はどれだけ自由になれるのか。

 しかし今は生きていなければならない。

 死ねば自分自身でなくなってしまう。

 彼が生きた全てがなくなり、貫きとおした意志が無限の時に霧散する。

 そう、生きてこそこの使命は意味を成す。


「お前が知る真実は世界の根幹を揺るがすものだ。それが世界に解き放たれれば、人々は聖域の重ねた負の歴史を前に何を信じればいいのか、その生きる道すら失うだろう。教皇はそれを恐れてお前をここに閉じ込め、ここを封鎖したようだな。それがこの世の為なのか。解き離して果たして喜ぶ者がいるのか。悪いが俺はそのどれにも興味がない。――――だがこれだけは言える」


 そう言うとサリエは言葉を切って、くっと不敵に喉を鳴らした。


「お前ごときが打ち壊せるほど聖域も世界も柔な造りじゃない。だから思いっきりやれ。中途半端など面白くない。お前が再度聖域に刃を向けた時、その時はこの俺が盛大に歓迎してやろう………」


 そう言うとサリエは自分の腰に佩いた剣をすらりを抜き、切っ先を男の方へと向けた。

 重たい闇を切り裂く輝きが目に痛い。


「この刃を以て、完膚なきまでにお前の世界を打ち砕く」


 毅然とした言葉を紡ぐその凍りつく美貌の怖ろしいこと。

 闇がサリエの黒に染まっていく。

 そう研ぎ澄まされた刃の切っ先に似た黒曜石の色に。

 悠然と上げられた口端には凄惨な環境で生き続けてもなお変わらない男の執念すら打ち砕く自信が籠っていた。

 再度歩き出したサリエの背を縋るように見つめ、男は生きる愉悦に顔をほころばせた。

 世の中にはまだまだ彼の想像を凌駕する人物がいる。

 赤髪の乙女然り、サリエ然り。


 この事実を知っていて、誰が簡単に生を手放すものか。必ず生きてこの男に対峙しよう。


 まるで明日の予定を立てるように気軽に、男は訪れるか分からぬ不安定な未来を夢想した。


「そうですか。貴方にご武運がありますように。出来ましたらまたお会いしたいものですからね。それまでどうか生きていて下さい」


 密室の壁際までサリエは辿り着いた。

 何かを探すように暗闇に視線を巡らすサリエを男は目を眇めて見つめ、軽薄な口調で話しかける。


「………して、どうやって外にお出になるのでしょう?よければ私がお手伝いいたしましょうか?」


「ふんっ。お前の手伝いなど必要ない。後で何を求められるか分かったものじゃないからな」


 そう言って振り向いたサリエが立ったのは一部分だけ人骨が除かれた場所。

 褪せた白に囲まれたそこは黒ずんだ石の床が見える。

 すぐ側の壁には深々と突き刺さった斧がある。

 錆付き朽ちた斧はその役目を終え、闇と同化していた。

 素早くその斧の柄を持つと、サリエはその痩身からは想像もできない力強さで壁から引き抜き、自身の足元目がけ打ちおろした。


 ずどんっ―――地が割れる轟音が響いた。


 鬱屈とした闇に激震が走った。

 白い骨の破片が飛び散る。

 邪悪の壕よりもまだ深い、魔王が眠る反逆地獄が歪な笑みを浮かべた。

 そのままサリエの姿が濃縮した更なる深淵に落ちていく。


「ああ……はっ、ははっ………ははははははははははははははっっ!これはこれは……!何が何でもここを出なければいけなくなりましたね。クワインのサリエか………貴方は一体何を知っているのです?貴方はあの本の中身を見たのですか?」

 


 悪魔の女王を追い詰める異端の異端審問官と世界の真理を知る塔の亡霊。

 この邂逅が森を駆ける彼女の運命を幾重にも変えていく。

 追われる女王すら預かり知らぬ真実は天使の真心か、それとも悪魔の下心か

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