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塔の亡霊6

 高らかに蹄を鳴らし、二頭の馬は深い森の中へと消えていった。

 彼らの気配がなくなるまでじっと佇んでいたサリエは、小さく息を吐くと自分の顔の前に掲げた手を下ろした。

 カランと軽い音を立てて、薄い小刀が地面に落ちる。

 その煌めく銀色に視線を落とし、サリエは自嘲気味に頬を引きつらせた。

 長細く精緻な指が小刻みに震える。

 剛速で飛んできた小刀をぶれることなく受け止めたのだ。

 その衝撃に手が痺れを感じても当たり前だ。

 寧ろ受け止めた彼の動体視力と瞬発力が人並を外れているのだ。

 サリエは小刀を拾うことなく、森に背を向けた。

 彼の見つめる先にあるのは古く錆ついた重厚な扉。

 この向こうでは腐臭漂う邪悪の壕がその顎を開けて待ち構えている。

 誰もが入ることすら拒み、正視することすら躊躇するだろう。

 しかしサリエは臆することなくその中へと足を進める。

 彼を受けいれたのは朝の浄化された空気の中にあって救われることのない贖罪の場だった。

 死んだように静まり返ったその中を音もなくサリエは歩む。

 まるで何かを探すように壁に触れた彼は、石の壁の一部に異変を感じた。

 サリエは躊躇なく、その石の一部を奥へと押した。


 ガクンッ―――隠された煉獄への扉が開く。


 開け放たれた地獄の蓋から壮絶な腐臭が立ち込める。

 瞬く間に割れた床は悪魔の顎だ。

 大きな口を開け、嬉々としてサリエをその舌に乗せた。

 サリエは予想通りの展開に薄い笑みを浮かべて、足元に出来た深淵に堕ちていった。

 


 澱んだ空気と濁った闇に迎え入れられたサリエは乾燥しきった骨の海にその秀麗な顔を歪めた。

 それは人骨に対する生理的な不快さ故というよりも自分の動きを制限する存在への不満であった。

 上を見上げると、もう彼が来た地上への出口は閉じてしまっている。

 だがそんな悲惨な状況にも関わらず、彼は何一つ臆することなく、正面を見据えた。

 そこだけは更に闇が濃くなり、そこに居る者を隠しているかのようだった。

 しかし一つしかない彼の瞳は確実に相対する者を確実に捕えていた。


「血に濡れた女王をどこへやった?」


 闇にあってもけして染まることのない凛とした声が相対する者へと突き刺さる。

 サリエからそう遠くない壁に凭れ、人骨の上に座るその人物。

 顔を覆う長い髪の向こうで、にやりと口の端が持ちあがる。

 落ち窪んだ眼窩から発せられる眼光はやたらに鋭く、サリエを舐めるように見つめてくる。

 こけた細面とその頭の小ささからは想像できないほどの幅広い肩幅。

 その体を覆う長衣の所為で彼の全貌が分からないが、かなりの長身であることが見て取れた。

 長衣の端は闇に溶け込んでどこまでが彼の体であるかは明確に分からない。

 もしかすれば彼の体はもうすでに闇と同化しているのかもしれない。

 その人物は何も声を発せずサリエの言葉を待つ。


「何も知らずにここに来た訳ではない。お前が何者か俺は知っている。その上で再度聞く。女王はどうした?」


「………さあ?知りませんね」


 軽やかに闇に響いたのは若い男の声であった。

 掠れることなく滑らかに紡がれた声にサリエは片眉を上げた。

 これは彼にとって感心していると言っているのと同義であった。

 サリエは隠すことなく心から目の前の男に感心していた。

 目の前にいる男は、サリエが知る限りではもう5年もこの暗闇に居続けている。

 このような劣悪な環境では普通の人間ならば半日と持たず発狂し、数日後には死していることだろう。

 だが目の前の男はどうだ。

 姿こそ今にも折れそうなほどやせ細り、まるで枯れ木のようだ。

 しかし彼の中心にある瞳。

 暗闇の中にあっても尚、爛々と輝くそれは叡智の輝きであるとサリエは知っていた。

 この男は狂ってなどいない。

 いや、ある意味狂っている。

 このような状況下に置かれて尚冷静であるなど狂気の沙汰でない。

 その理知的な狂気の中、彼は5年もの月日を生き永らえてきた。

 彼がこの狂気に満ちた密室から逃げ出せないことは今彼がこの地に留まっている姿を見れば一目了然だった。

 サリエはそっと相対する男の足元へと視線を向けた。

 彼が腰掛ける人骨の山へと。


「フン。そんな姿になってまで生き永らえる意味があるのか?なんという執念。それは自分を闇へと陥れた聖域への報復か?」


 本来ならば地に着いているべき足が右にない。

 その部分から伸びるのは長衣から僅かに覗くやせ細った枯れ木のような棒だった。

 それは腐って黒ずみ、炭化し、側の人骨にこびりついて一体と化している。

 よく見れば長い髪で隠された細面の顔も右半分が爛れたように腐り歪んでいた。

 悪魔もこれほどまで醜悪な顔をしていないだろう。

 腐れ枯れ果てた姿はもはや人とは呼べないまでに変化していた。

 その姿を見れば誰もが死霊だと恐怖に逃げ出すだろう。

 歪み、腐り、爛れ、直視することすら嫌悪する姿―――だがその生々しく腐り落ちる姿は人故。

 サリエは彼の生を肌で感じ戦慄した。

 このような肌が粟立つ恐怖を感じたのはいつぶりだろう。

 先ほど不審な二人組の長身の男に小刀を脳天目がけて投げつけられても何も思わなかったのに。

 彼は本気でサリエの頭の中心を狙っていた。

 もしサリエが避けきれなくても構わないという殺気が小刀に込められていた。

 だがそんな殺気など毛ほども恐ろしくない。

 それよりも目の前の男の、盲執とも取れるあきない生への渇望が恐ろしい。

 取り憑かれているといっても過言ではない。ここまでして生き抜いて、彼が果たそうとするものはなんなのだろうか。 

 死後自分を優しく受け止めてくれる天上を知っていれば緩やかに訪れる死に対して、両手を広げて迎えれることもできるのに。

 彼は天上の世界を確信してなお、その世界に背を向けている。

 彼の纏う空気が穏やかに微笑んだ。

 自分を見下げるサリエの視線を感じてなお、この男はそんなものは些細なことだと一蹴して悠然と微笑む。

 どれだけ醜く歪んだ姿をしていても彼は高貴に満ちていた。

 それは天高く掲げた彼の理想故か。

 人はその使命に殉じると覚悟を決めた瞬間から物事への拘りがなくなり、濁りなき水面のごとき穏やかさを手に入れるのかもしれない。


「流石サリエ司教。教皇様が信頼を寄せているだけありますね」

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