塔の亡霊4
そして高尚な使命を負った孤独な旅がいつも通りの賑やかな珍道中になったのは言うまでもない。
カンザスはこんなはずではなかったのにと、側にいるアクラスを恨みがましく見上げた。
だが事実彼のお陰で、最短距離でエクロ=カナン入り出来たのだから声高に文句は言えない。
アクラスの言うとおり、カンザス一人では聖域周辺をぐるぐるして、エクロ=カナンに辿り着いた時には人生の大半をその旅に費やしていたことだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
今は課せられた使命を全うすることこそカンザスの生きる理由だ。
頭を擡げる暗い思考を追い払い、目を輝かせる。
(颯爽と女王を捕まえて、オレの名前を世界中に轟かせたる!!!)
怒りを野心に変え燃え上がったカンザスは活気盛んに歩みを速めた。
その後ろをアクラスは込み上げる笑いを押さえながら続いた。
鬱蒼とした森の木々が一気に晴れ、開けた空間に出た瞬間、カンザスは目の前の光景に頓狂な声を上げた。
そしてそのまま、自分の目が捉えた不協和音目がけて駆けだす。
「お、おい、あんた!司教…様やろ?なんで、こんなところに?」
カンザスの目に留まったのは黒いマントに赤の花十字を背負った隻眼の男だった。
凛とした朝の空気を凍らせるほどの美しい顔をした男は今まさに嘆きの塔への扉を開けようとしていた。
カンザスの声に男の手が止まる。
緩慢な動きで男が首をこちらへと向ける間に、カンザスはその俊足に物を言わせ、あっという間に男の元へと駆け寄った。
渾身の全速力にはぁはぁと息を切らして、立眩みを起こしそうになった。
しかしこんなところでへばってはいられないとカンザスは目の前の男に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
いっそ狂信的なほど熱烈な視線を自分に投げかけてくるカンザスを男は憮然と見返した。
濡れて滴る黒曜石が朝の爽やかな光を受けて、蠱惑的に深く鈍く輝く。
どくん――っと人知れず鼓動が反応し、カンザスはうろたえた。
なんと妖艶な美貌なのだろう。
男であっても思わず頬を染めてしまいそうなほど匂い立つ美しさに言葉を失い、逸る鼓動を持て余す。
カンザスは同性の色気に惑う性質ではない。
むしろ異性に興味深々で、年の割に初な、どこにでもいる青年だ。
そのカンザスが十八年生きてきて、初めて男を美しいと思った。
凄艶な眼差しに息を飲む。
だが子どもでもあるまいし、いつまでも照れている場合ではない。
浮ついた自分を叱責し、ぐっと腹に力を入れて表情を引き締める。
目の前の男は聖域に属する司教だ。それは彼を包む服装で分かる。
黒の詰襟の司教服は簡素なタイプだが、よく見れば上品に金糸で縁が縫い取られ、高級なものだと見て取れる。
そしてその胸にあるマントの留め金――金色の天秤とクロスされた二本の小枝の上にかかる翼を模した紋章が描かれたそれを見れば彼が何者か一目了然だった。
翼は聖域を、金色の天秤は審判を司る者を、二本の小枝は神に忠誠を抱く者をそれぞれ表す。
その全てが描かれた紋章を抱く彼が聖域に属する異端審問官だと聖域の一衛兵であるカンザスにもすぐに理解出来た。
異端審問官と呼ばれる司教―――聖域にいれば口もきけない遥か彼方、至高の存在だ。
その高貴な存在を前にカンザスは打ち震えていた。
この司教に今この地で起きている未曾有の事態を教えなければとカンザスは息急き切って、声をかけた。
「その塔は危険や……です!いや、危険な奴はもう塔を出てったんやけど……。あの、司教様、今この地では大変な事件が起こってて……なんとエクロ=カナンの女王レモリー・カナンは魔女やったらしく、聖域で処断される予定やったんっすけど、運ばれる途中、この塔から逃げ出してしまって…………それで、その~ああ、そうだ。自分は聖域から女王の護送のために派遣された祈りの泉付近の衛兵をしているカンザスで、こっちはシャムシエル枢機卿の近衛隊の第三分隊長をしているアクラス……」
「……ああ、あの女好きの小男の手下か………」
「は、はいっ?」
聞き惚れる玲朗な声がぽつりと呟いた。カンザスは咄嗟にその言葉の意味が分からず、思わず顔を乗り出して聞き返してしまった。
しかし対する男はカンザスには何の興味もないとばかりに一つしかない黒の瞳を細く眇めてじっと塔の扉を見ている。
「祈りの泉とは名ばかり、世界中探してもあそこほど醜悪で淫乱な場所を俺は知らない。知らずに名乗っているならばなんと哀れなことだ。キリエ……神よ、この子どもを哀れみたまえ」
そっとカンザスの方へと顔を向けた男は濡れ滴るような艶やかさに壮絶な嫌味を乗せ、口端を歪めた。
この世の全てを嘲笑したような笑みはそれでも極上の美しさに変わりはない。
うっすらと朝靄が晴れ、初冬であっても変わらず緑を輝かせる森の木々の間、その黒い男だけが異端に思えた。
子どもと呼ばれ、馬鹿にされたように憐れまれてもカンザスには男の言葉が一つも理解できなかった。
情けないほどポカンと口と目を見開き、目の前の優美な男を見つめるばかり。
だがアクラスは男の意味することが全て分かっているのか、憐れな主人の情けない表情に思わず噴き出した。
「ふふっ……カンちゃん、目ぇとれそう………ふふふっはははははははっっ!」
「な、何を笑ってんねんっ!」
羞恥に赤く染まった顔の中、ちょっと涙ぐんだ薄緑の瞳が精悍な顔を睨みつける。
何一つ聖域の裏を知らない、可哀想で愛しい純情青年にアクラスは優しく現実を教えてやった。
「おれ達はこの司教様にからかわれているんだよ。確かにおれの聖域での上司は死んでも治らない熟女好きだし、祈りの泉はよく修道女と修道士の逢引の場所に使われたりしてる」
「マ、マジで!!!」
思わずカンザスはアクラスの言葉に食いついて叫んでしまった。
だがすぐに自分を思い出し、更に顔を真っ赤に染める。
なんと世俗的で子どもっぽい反応なんだろうと自分が情けなくなってくる。
アクラスは更に腹を抱えて笑い出し、目の前の男はカンザスを冷やかに見下してくる。
こんなにも冷やかな視線を感じるのは初めてで、流石のカンザスも怒鳴り出す気力も湧かずに落ち込んだ。
その項垂れた肩を慰めるようにアクラスがポンポンと叩く。
「カンちゃんはからかわれ易い体質なんだよ。落ち込んでも仕方ない」
そんな慰めってありか?痛切にそう感じたが、カンザスは何も言わなかった。
その代わり光を受けてころころ色彩を変えるペリドットの瞳でアクラスを絡みつくように睨みつけた。
そんなカンザスにアクラスはおどけるように眉を押し上げてみせると、対する黒い男に視線をやった。
彼は今、頼りなげな日の光の背に受けて、こちらを真っ直ぐ体を向けている。
逆光で彼の表情が陰り、その全貌が分からない。
その彼の背に揺れて見えるのは彼の使命感かそれとももっと禍々しいものなのだろうか。
カンザスは何故だか胸を掻き毟られる様な漠然とした不安に駆られた。
「隻眼の異端審問官……あの有名な死の天使サリエ殿とお見受けします。異端審問官である貴方が何故このような辺境にいらっしゃるのですか?私どもは血に濡れた女王を追う身でありますが、よろしければベルゼルまでご案内いたしましょうか?」
流れるように丁寧な物腰で頭を垂れたアクラスを値踏みするように見つめた男はサリエと呼ばれても否定することはなかった。
アクラスの言葉にカンザスは、これがあの有名な異端審問官なのかと呆けるように凄艶な男を見つめた。