塔の亡霊3
カンザスが密命を受けたのは3日前の深夜。
相手は何故、ただの衛兵であるカンザスにこのような重要な任務を与えたのか今でも不明だが、もしかすれば誰でも良かったのかもしれない。
そう、あの日。
カンザスは雑居房の片隅に宛がわれた自分のベッドの上で寝返りを打っていた。
どちらかといえば寝つきはいい方だ。
なのに、この日に限っては月がどれだけ高く登ってもカンザスは夢の中に入り込むことができなかった。
隣では同じ衛兵のマビーが高鼾をかいていた。
今までそんな騒音もものともせずに寝むれていた自分を尊敬せずにはいられないほど、カンザスはその不快な音が煩わしくて仕方なかった。
「マジでウッサイねん!」
小声で怒鳴ると、カンザスはマビーの頭を激しく殴ってやった。
かなりの衝撃であるにも関わらず、マビーは起きることなく、むにゃむにゃと寝言を言って寝返りを打つ。
カンザスの思惑通りに鼾はなくなったが、妙に静まり返った夜に何故だか胸がざわついた。
(ああ……クソッ!夢見が悪かったからや……)
カンザスは忌々しげに頭を振る。
短い髪を掴む様に頭に手をやったが、何かを思い出したようにその手が止まった。
ぎゅっと毟るように髪を掴むと、カンザスは顔を顰めた。
窓からは清かなる月の光がしんしんと降り注いでいる。
月の光はマビーの横顔にも、カンザスの苦悩を浮かべる顔にも平等に降り注ぐ。
月に照らされ青白く浮かんだカンザスの表情にはうっすらとした陰影がつき、それはまるで困惑しているようにも、感情の渦に耐えているようにも見え、ひどく色っぽく彼のしどけない姿を浮かび上がらせていた。
「アカン……マジで寝れへん……何で、あんな夢一つでこのオレが……」
そう呟くと、カンザスは熱い吐息を漏らした。
月に染められ青白かった頬に朱が刺す。
カンザスは耐えきれなくなったのか、勢いよく立ちあがった。
そのまま足早に部屋の外へと急ぐ。
取りあえず外の井戸で頭から水でも浴びれば、少しはマシになるだろう。
実に単純な思考でカンザスは井戸を目指す。
そういう方法でしか己をコントロールできない。どうしても感情ばかりが先走ってしまうのだ。
寝苦しい気候ではない。
この聖域は大陸の中心にあり、晩秋の今が一番過ごしやすいのだ。
なのに、何故こうもカンザスが眠りにつくことを夜が拒むのか。
いや、カンザス自身理由は分かっていた。
夜が拒むのではない。
己が寝ることを拒んでいるのだ。
眠りにつけば、またあの夢を見るのだと思うと、体中が興奮して、思うようにならない。
カンザスは頭を振りながら、暗い廊下を曲がり、井戸のある中庭へと急いだ。
その間中彼の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すのは、ある断片的なイメージだった。
白い空間、柔らかな曲線、眩い光、射抜くような鋭さ、そして、一人の女………。
音はない。
色もない。何か明確な動きがある訳でもない。
ただじっと自分を見つめてくるような、そんな感覚だけは覚えている。
「悪夢……ってほど悪い夢やない。今思い返しても曖昧で、訳分からへん。やのに……やのに惹きつけられて、忘れたくても忘れられへん……こんなん初めてや」
ホウッと何かに思い耽るような熱いため息を漏らした。
その時だった。
カンザスの腕が不意に掴まれ、暗がりに引き込まれた。
けぶるように靄がかかっていた頭の奥がキンッと凍りついた。
今の今まで何の気配も感じなかった己の不甲斐無さに吐き気が込み上げた。
だがそこは曲がりなりにも聖域を守る衛兵だ。掴まれたと同時に、身を固くして反撃の姿勢を取った。
だが、カンザスが声を出し誰何する前に相手はカンザスの発言を牽制した。
「貴方は世界を救いたいと思いませんか?」
「………何言って……」
柔らかく、まるで今宵の夜のような声だった。
月ではない。ただの夜だ。
光など存在せず、優しい面影を見せるもその裏に何を隠しているのかまったく読めない、そんな夜だ。
声の意味するところをカンザスは量りかねた。
一瞬身構えた臨戦態勢を緩めると、姿なき相手は我が意を得たりとばかりに闇の中で笑った。
何故笑ったと思ったのか分からない。
ただ空気がそのように揺れたのだ。
カンザスは不審感を顕わにして、眉を寄せる。だが次に発せられた言葉に戦慄を覚えた。
「血に濡れた女王を裁く時が来たのです。必ず生きて聖域まで連れてこなければならない。私の言葉が分かりますね。何があっても必ず彼女をこの地に連れてきなさい」
抑揚なく、しかし有無を言わさない言葉に圧倒された。
「血に濡れた女王やと……」
聞いたことがある。それは遠く北の地にあるエクロ=カナンという小国の女王のことだ。
彼女は悪魔を呼び、この世を混沌に帰そうとしている。
それはもっぱらな噂である。
だが噂は噂で、聖域もその噂に対し何の行動も取りはしていなかった。
それこそが噂でしかない証拠であるとカンザスは思っていた。
一国の王ともなると、多かれ少なかれ、こういったマイナスの噂が立つものなのだ。
だが、今、カンザスの相対している者は何と言った。
血に濡れた女王を裁くと言ったのだ。
生きたままこの地に連れてくるということは、この地で裁判を開くことに他ならない。
聖域がエクロ=カナンの女王を危険と認めたのだ。
大げさに動かないのも理解できる。事はそれほどまで慎重に動かなければならないことだからだ。
一国の女王を裁くとなれば、いくら聖域でも越権行為になり得かねない。
戸惑うカンザスの瞳に、相手はカンザスの理解の度合いを見たらしく、それだけを告げ、闇に消えた。
返事など聞かずとも相手にはカンザスの次の行動が分かっていたのかもしれない。
相手が何者であるか今でもカンザスは分からない。どこかで聞いたことのあるような声であるが、どれだけ思い出してもその姿は人の形を取る前に霧散してしまう。
相手はカンザスをカンザスと認識して声をかけたのか、それとも丁度そこにいたのがカンザスだっただけなのか。
だがそんなことは些末なことだ。
先ほどまで悪夢に悩んでいた自分が矮小な人間に思えてくる。そんなどうでもいいことに拘っている暇などない。
時は大きくうねりながら、姿を変えていく。
今、この波に乗らなければ、カンザスは何のために聖域で衛兵をしているのかその意味を失ってしまう。
女王の護送こそが自分の使命であると自分の正義感を燃やした。
俄かに頬が紅潮し、カンザスの美しいペリドットの瞳が輝き出す。
カンザスはこの聖域に来て初めてといっていい躍動する自身の心を感じた。
高い使命感を抱いて聖域に来たが、その日々は彼の理想とかけ離れた平穏で面白みもないものだった。
即座に自分の部屋に戻ると旅の身支度を整えた。
マビーはまた鼾をかいていたが、もう気にはならなかった。
男の一人旅だ。それに使命を負っての旅である。必要最低限を揃えるのにそう時間はかからなかった。
最後にいつも自分が羽織っているマントを手に取り、カンザスはしばし、そのマントを見つめて逡巡した。
「こいつは、置いてくか」
秘密裏の命であるため、聖域の衛兵用の紋章が描かれたマントは着用できない。
この世界では紋章がものをいう。
何処にも属していない者は保護の対象にならない。
見知らぬ土地に入るならば、それこそ何がしかの紋章を背負っていなければならない。
何を背負うかしばし考え、不本意ながら自身の出身国の紋章を選んだ。
本来ならばウォルセレンやシーリエントなどの温厚で比較的開けた国柄の国を選ぶのが無難であったかもしれない。
だがカンザスは恐怖帝国と恐れられるガルシアの黒い鷲を選んだ。
どう取り繕っても生まれた国の臭いは消せない。
カンザスには雄大なウォルセレンの獅子は似合わないし、精美なシーリエントの人魚とは気が合わない。
どこまでも貪欲に獲物を追い、情の欠片も見せぬ黒い鷲。
それが身の丈にあっている。
そうして声を掛けられてから一時も立たぬ間にカンザスは人知れず、遠くエクロ=カナンを目指しての旅に出た。
(許せ。アクラス。オレは使命の旅に出る)
心の中で一緒に聖域に来た従者に謝り、夜風にマントをはためかせる。
久しぶりに纏った濃緑のマントは驚くほどにしっくりと身に馴染んだ。
足早に自分の属している衛兵宿舎を出ると、そのまま闇に紛れて聖域を囲む外壁を目指した。
こんな夜陰にカンザスを咎める者などいない。
不意に流れを変えた風に導かれるようにカンザスは後ろを振り向いた。
そしてペリドットの瞳を眇める。
彼の目に映ったのは世界の中心と呼ばれる聖域の中核、この世の天上と称される壮麗で雄大な天使の城――――セラフィム大聖堂。
その美しい白亜の城を目に焼きつけようとカンザスはしばし麗しい姿に見惚れた。
夜であっても静かな月光に照らされ、淡く輝くその姿からは今この世界に走る戦慄など想像できない。
ここは世界最後の砦だ。
この優美な世界を守らなければとカンザスは自分に言い聞かせた。
次にこの宮殿を見る時は使命を終えた時だ。それが使命を果たした瞬間か果たせなかった瞬間かは問わずに。
白亜の城に背を向け、厩舎にいる自身の馬の元へと駆け寄った。
さあ、世界を救う旅に出よう。
そう心の中で固く誓ったその時。
「夜逃げなら付き合うよ?カンちゃん」
思いもしない声がカンザスを迎えた。
月明かりすら届かない厩舎の奥で見知った顔が不敵に微笑んだ。