塔の亡霊2
「そんな大木、拳一つで割れる訳がないでしょう。ちょっと考えれば分かることなのに……」
ひぃひぃと拳を擦っている青年の上に呆れ声が降ってきた。
その低く柔らかい声に弾かれるように青年は顔を上げる。僅かに水気を含んだ淡いペリドットの瞳で自分を見下げるその端正な顔を睨みつけた。
しかしそんな苦痛に歪む表情すら愛らしく、長身の男は思わず吹き出してしまった。
「ッフフ……ほんと、カンちゃんはお間抜けさんだな~」
「カンちゃん言うな!」
激昂し噛みつくが、対する男は慣れたものとばかりに大げさに目を見開き、肩を竦めるだけ。
これではカンちゃんと呼ばれた青年の怒りが更に倍増するだけだ。
それを分かってあえて嫌がるあだ名で青年を呼ぶこの男は爽やかな外見からは想像できないほどに腹が黒いのだろう。
すっと通った鼻梁にくっきりとした紫の瞳。
はっきりとした顔立ちなのに押しつけがましいところなど一切ない。
あっさりと品の良い雰囲気は見る者誰にも好印象を与えることだろう。
もちろん、それは顔だけではなく無駄な筋肉のない均等の取れた引き締まった体やその佇まい、彼の一挙手全てに表れていた。
滑らかな薄茶色の髪を揺らし、破顔する青年はまるで滔々と流れる濁りなき河のようだった。
「じゃあなんて呼びましょうか?貴方はたくさん名前をお持ちだから迷ってしまう」
「いらんことを言わんでええねん!今のオレは聖域の衛兵、ただのカンザスや!」
「そんな尊大な口のきき方をする一衛兵がいますか?本当に世間知らず」
「煩い!そ、それよりもなんでお前が付いてくんねんっ!お前、仮にも聖域の近衛兵団の分隊長を任されてんやで!そう簡単に聖域を離れたらアカンやろ?普通っ!あ~くっそ~っ!剣の腕はオレもいいとこいってるはずやのに………」
地面に座り込んだままカンザスは喚いた。
朝露にじっとりと湿った土が燃えさかる彼の体にひんやりと寄り添うが、そんなことに構っている余裕などない。
妬みとも羨望とも取れる視線で長身の男を見上げた。
一緒に聖域の騎士として志願したはずなのに、誰もが惚れこむ目の前の男は自分を置いてどんどん地位を上げていく。
剣の腕も(かなり贔屓目に見て)同格なはずなのに………。
キッと下から睨みつけても、腹立たしいほどに爽やかな男前は眉を押し上げ、絶妙な表情を浮かべて答えるだけ。
そして男は小さく首を傾げて禁句を口にした。
「剣の腕より人間性の問題では?」
「ふっざけんな~!」
カンザスは激昂した。
怒りのまま、がばりと立ち上がると拳の痛みなど忘れて目の前の長身の男に食ってかかる。
彼の羽織る濃緑のマントの胸元をぐっと掴むと、勢いよく自分の方へと寄せた。
長身の男はカンザスにされるがまま、お辞儀する程に腰を折った。
「もっぺん言ってみぃ!アクラス!!」
じりっと額を押しつけて、お互いの顔さえ確かに見えない距離でカンザスは凄んだ。
怒りに我を忘れたペリドットの瞳が謎めいた輝きを秘める紫の瞳と絡み合った。
しかしアクラスは、自分の方へとつっかかってくるカンザスに余裕の笑みを浮かべる。腰を折ったまま、そっとカンザスの耳朶を舐めるように囁きかけた。
「そういう直情なとこ、おれは好きだけどね」
「なっ!」
カンザスは脳の奥の辺りがぞわっと痺れるのを感じた。
こんな妙な感覚は初めてで、咄嗟にアクラスのマントを離した。そのまま本能のままに後ろに飛び下がる。
まさか耳に息を吹き込むという単純にしてダメージの高い攻撃を仕掛けてくるとは。初めて受ける攻撃に怯んでしまい、カンザスは次の言葉も出てこない。
そんなカンザスにアクラスは苦笑するように目を細めた。
「なに、赤くなってんの?」
「お、お前が耳に息を吹きかけてきたからやろ!」
小馬鹿にしたように顔を歪めるアクラスが腹立たしく、それ以上にアクラスの思い通りの動きをしている自分が悔しくて仕方ない。
だがその感情を上手に対処できないカンザスはただ怒りに任せて、地団駄を踏むしかできなかった。
「フフッ……そういう単純で純情なお坊っちゃんにはまだまだ分隊長は早いってことだよ」
まるで犬猫にでもするかのように、アクラスはカンザスの頭をポンポンっと叩いた。
もちろん、最後に誰もが好きになる笑顔でカンちゃんと呼びかけることも忘れない。
流石のカンザスも怒りだす出鼻を挫かれた。
悔しそうに口の端を噛み締めながら、顔を背けるしかできない。
「もう、お前は聖域に帰れや!どっかの偉い枢機卿でも守っとけっ!」
何とか言い負かしたくて、でもいい言葉が浮かばなくて、仕方なくカンザスは背中越しに拒絶を表してみた。
だが、後ろからのんびりついてくるアクラスにはそんな言葉通用しない。
背を向けるカンザスの表情がちゃんと見えているかのように、精悍の顔に苦笑を浮かべる。
「やだね。おれが帰ったら誰がカンちゃんの面倒を見るっていうんだ?今だってこの塔に来るのに道を間違えまくったじゃないか。実はカンちゃん、女王を逃したのは自分の所為だって責めてるくせにさ~」
「そ、そんなことあらへんっ!」
図星を言い当てられ、カンザスは咄嗟に否定した。
そんなカンザスを嘘吐きと優しくなじるように、アクラスは歌うように先を続ける。
「このゴモリの森はただでさえ帰らずの森と呼ばれている。その森でカンちゃんを一人にするなんて、おれは森に生ゴミを捨てに来たようなものじゃないか」
「おい、生ゴミってなんや?」
なんて言い草だと憤慨し振り向いたが、目の合った男前はカンザスが振り向くことなどお見通しとばかりに絶妙な笑顔を浮かべている。
「ものの譬え―――。事実、おれがいなければカンちゃんはエクロ=カナンの王都ベルゼルまで行きつくことなく、きっと一生この塔で生きていかなきゃならなくなるぜ」
その言葉が事実のように思え、カンザスは遣る瀬無いとばかりに大きくため息を吐き、肩を落とした。
ちらりと視線を上げれば、鬱屈とした塔がすぐ側に見える。
そうだ。いつまでもこの主人思いでない従者――聖域では上司だが……―と言い合いをしている場合ではないのだ。
今彼に課せられた使命はエクロ=カナンの国を恐怖に陥れた魔女――血に濡れた女王を捕えること。