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黎明の刻9

 自分の進む道を閉ざしていた門が重々しく開くのを感じ、ハニーは溢れる感情を抑えるができなかった。

 両手から冷たく無機質な鎖がなくなっている。

 ハニーは自由になった。

 もう何者も彼女が羽ばたくことを邪魔できない。


「できましたか?」


 抑揚なく囁かれる男の声にハニーはぶんぶんと首を振って答えた。

 歓喜のあまり、声もでない。

 痛々しい細い腕を忙しなく触り回し、ハニーは解放されたことを実感していた。

 

「これでは貴女は自由です。どこにでも旅立てる。さあ、運命の小鳥さん、全ては貴女の望むまま。暗闇に失望して、命を絶った先人達とは違う」


「え?」


「暗闇や噂に騙されませんように。ここはけして密室ではない。ここにあるのは、人の心の弱い部分に入り込む悪魔だけ。そう、人を失望に追い込む暗闇という名の悪魔です。ただの暗闇に、人は悪魔という幻影を描く。そして勝手に狂っていくのです」


「暗闇が悪魔を見せる……」


 先ほどまでの解放感を手放し、ハニーは呆然と男の方へと視線を巡らせた。

 しかしまた闇に溶け込んだ男はその存在さえも掴みきれない。


「そう。人は完璧な生き物ではありません。もろくて、弱くて、そして強欲。よく覚えておいて下さい。複雑に絡まった人の心が悪魔を大きく育てる。貴女に襲い掛かった悪魔たちは、一体誰の心から生まれたのでしょうね?」


「た、たとえば?」


 声が上ずった。

 ハニーの心を焦らし、玩ぶこの声は何を考えているのか。

 複雑な色合いを持ってハニーを翻弄させる声に目まいが起きる。

 この男は本当に5年もこの暗闇にいたというのか。

 ならば何故、こんなにもハニーさえも掴みきれないこの事件の全貌を全て見透かせるのか。

 しかしこの男が簡単にハニーの問いに答えるはずがないのだ。


「さあ?あまりに恐れ多いことに口にすることも憚られて……。それよりもいいのですか?私は貴女といつまでも話していたいけど、でも、貴女には時間がないのでしょう?」


「そ、そうよ。わたしは行かなければ……ねえ、出口はどこにあるの?」


 男の言葉にはたと気づき、ハニーは身を乗り出すように叫んだ。

 この男の存在が気にはなる。

 男の語る裏の歴史が、悪魔のフォークロアが示すものが知りたい。

 しかし今は、それよりももっと大切なことがある。


「どこって?それはね…………」


 まるで悪戯を思いついた子どものように軽やかだった。

 含むような声が途切れた瞬間。

 どんっと壁をたたく音。ドクンッと心臓が弾けた。


「え?」


 間抜けな声はすでに遠くにある。

 赤い髪を逆立て、ハニーの体が宙に踊った。


「……ぃぃぃぃいいいやややあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁぁぁ~!」


 不意になくなった足元に、さらに突き落とされる暗闇に、ハニーは身を固くした。

 まさかまた、落とされることになるなんて……。


「ああ、言い忘れていました。悪魔は実在するのですよ。それを確信した者の前にのみね。それは一種の異空間。世界の旋律の裏の話です。旋律どおりに生きる貴女には関係ない話ですね?でもその影は貴女を放ってはおかない」


 ハニーの絶叫が遠ざかっていく、狭い地下牢に男の空々しい声が響いた。


「って、もう聞こえていないか。さようなら、可愛いお姫様。もう二度と会うことなどないでしょうけど。貴女の進む道に幸あらんことを」




 ハニーが落ちたのは、狭い地下通路だった。

 腐臭がたちこめるそこは、さっきまでハニーがいた地下牢よりも劣悪な場所だった。

 地獄の一番腐った部分だけを抽出したような空気がどんよりと立ちこめ、ハニーを押しつぶそうとする。

 しかし、ハニーはその闇をただ懸命に駆けた。

 その先に本当に出口があるのか。

 本当に地上に出て、新鮮な空気が吸えるのか。

 考えれば考えるほど、自分を包む暗闇が重く圧し掛かる。

 心に滲むように現れた悪魔がハニーに囁く。

 もう立ち止まろう。この先にあるのは変わらない闇だけよと。

 その声を振り切るようにハニーは大きく被りを振った。


「エル……」


 やっとの思いで絞り出た呟きが、孤独な彼女を支えた。

 吸い込むことすら嫌悪する空気が振動した。

 前しか見据えていない金色の瞳はまるで日に照らされ生命の息吹に震える朝露のよう。

 

(そうだ。私には果たすべき約束がある)


 ハニーが捉えているのは、この闇の出口。そして遥かゼル離宮だけ。

 ここにはもう悪魔はいない。

 暗闇に悪魔を思い描く者がいなければ、悪魔は存在しない。

 ハニーは痛みに悲鳴を上げそうになる口をぎゅっとかみ締めた。

 もう体はとうに限界を迎えている。

 でももう立ち止まっている時間はない。


「待っててね。エル」


 友の名が響いた永遠に続く深淵の闇の、ずっと先に小さく輝く光を見た。


「あと少し……」


 無我夢中で闇を駆けた。

 気が付いた時、ハニーは薄ら白けた夜明けの空に照らされた森の中にいた。

 森の中に木の根元に地下道の小さな出口はあった。

 長らく忘れられたそこは覆い茂る草と絡まる蔦で出入口を塞がれていた。

 ぶちぶちと蔦を薙ぎ払い、緑の封印を剥ぐとハニーは初めて安堵の吐息を漏らした。

 ゆっくりと辺りを見渡すと、遠くに嘆きの塔の重々しい影があった。

 その塔の向こうには白く明けゆく黎明の空が広がっていた。

  

           **



 朝靄の中に浮かぶ石造りの塔。

 眩い光に照らされてもなお、陰鬱な空気を放つ簡素な塔の側でゴモリの森の木々が揺れる。

 誰も立ち寄らない、誰からも忘れられたここはこの世の果て。

 嘆きの塔は生まれいずった朝の中にあっても、死後の世界のような静寂に包まれていた。

 まるで大きなキャンパスに描かれた絵画のように動きを止めたその空間にじゃりっと砂を踏む音が響く。

 生まれたばかりの草々の上に深い影が落ちた。

 影は大きくマントを靡かせて、ゆったりと塔へと近付いていく。

 その影が動く度に、妖精の涙のような朝露が震えて零れ落ちる。

 深い森に僅かに注がれる日の光を背に受け、その黒衣の男は絶対零度の美しさを誇る顔を無表情に張りつかせていた。

 その肩に浮かぶのは目の覚めるような赤い花十字。

 黒い眼帯に覆われた左目に、無造作に押し上げられた黒い髪。

 彼は塔の側まで来るとその足を止め、塔を仰ぎ見た。


「フンッ。ここが血に濡れた女王終焉の地か…………」



 地獄の淵から這い上がった血に濡れた女王。

 だがこれは壮絶な悲劇の序章に過ぎなかった。

 過酷な運命にその身を投じた彼女を待ち受けているのは天使の慈しみか、それとも悪魔の蔑みか。


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