黎明の刻8
「5年ですって!?ふざけないで!この騒動が始まったのはせいぜい三ヶ月前ぐらいよ。5年も閉じ込められた人が知るわけない。……それに、こんなところで5年も人間が生きていける訳ないわ!」
「クス。正論をありがとう。でもね、貴女の知っている常識が全てであるとは限らない。貴女の知っている世界の外側で、確かに存在する非現実もあるのですよ?」
「な、なによ、それ?」
突き放され、冷水を頭から掛けられたように全身が痺れる。
やっと掴んだ一縷の希望がハニーの翼をもぎ取り、地へと叩き落とす。
自分では制御できない衝撃が胸の内で弾けた。
ハニーは荒れ狂う嵐の中にいた。
彼は何を言いたいのか。
男は期待を抱かせたかと思うとすぐにその期待を打ち砕き、ハニーを翻弄させ猜疑心に駆る。
それでももう知らぬ前には戻れない。
「ふふ、可愛いお姫様。貴女は悪魔をこの世に呼び出すための本があることを知っていますか?」
「何よ、いきなり!そんなことはどうでもいいのよ!悪魔はこの世にはいない。全て地獄に封じられている!そんなのよちよち歩きの子どもだって知ってるわ!」
突飛な話題に、ハニーは苛立たしげに声を荒げた。
しかし男に取ってどこ吹く風。
ハニーが興奮すればするほど、楽しくてしかたないとばかりに声が弾む。
「クス。そんなに過剰に反応してくれると話がいがありますね。ああ、怒鳴らないで。少し私の話を聞いてください。これは貴女にとって悪い話ではないはずですから」
男はそう前置きすると、小さく息を吐いた。
もしかするとこの男は微笑んでいるのだろうか。
ハニーは自分の瞳に映った闇の輪郭を信じられない思いで見つめていた。
「……はぁ。久々に肺に大量の空気を入れたので疲れました。地下は空気が澱んでいてね、長時間貴女と同じような調子で話していては酸欠になりそうだ」
「バカにしてんの?」
不安で揺れる心を沈め、ハニーは威勢のよい顔で男を睨みつけた。
不愉快な発言には断固対抗するのがハニーの持論だ。
しかし、勝気な発言もいつもより尻つぼみになって闇に消えてゆく。
「してませんよ。久々に私の相手をしてくれた貴女にせめてものお礼をしようと思っているんです」
クスクスと笑う声は、ハニーの発言よりもハニーの心を読んで笑っているように聞こえた。
駆け引きなど考えも及ばず、本音が口をついて出る。
「お礼なら、ここから無事に抜け出せる道を教えて」
「ええ。出してあげますよ?ただし、この先はもっと危険です。生半可な気持ちでいるなら、ここでもうおやめなさい。ここにいればいつか貴女は助かる」
男の声はハニーの弱い部分に直に語りかけてきた。
このまま闇に沈み、何も聞かず、何も感じずにいればいつかは命が助かるのだと男は言う。
だがそれはハニーが望んだ世界と掛けはなれた絶望と同義に思えた。
「これは貴女が考えているようなたった一国の女王を陥れる陰謀ではありません。世界の旋律、聖域の根幹を覆すことなのです」
常に軽く響いていた男の声が急に鋭くなった。
まるで喉元に剣先を突きつけられているかのように、男の覇気に押しつぶされる。
輝く金の双眸が不安に揺れた。
抑揚のない声がハニーの覚悟を問う。
「それでも先に進みますか?希望など存在しない悪夢の荒野を」
闇をたゆたう声は刃となってハニーの胸を貫く。
じっと眇めるように注がれる視線が肌を焼く。
華奢な体で抱え込むには彼女はあまりも多くのものを失い、傷ついた。
ここで足を止めても誰も彼女を詰りはしないだろう。
しかし……その金色の瞳はまだ何も失っていない。
まるで神の祝福を一身に受けているかのような、曇りなき眼で男を見返す。
「もちろんよ。この身が朽ちようと、この信念は消せない」
「クッ、ククッ……フハハハッ……………愚問でしたね」
胸を反らし、頬笑みさえ浮かべる彼女こそ真の王者だろう。
闇を吹き飛ばす風は赤い髪を揺らし、男の方へと吹いてくる。
これほどの愉悦を感じたのはいつぶりだろうと、男は心から湧きあがる笑いを抑えることができなかった。
彼の目に明確に映し出される美しくも輝かしい一人の乙女。
それは闇に咲く一輪の百合のように高貴で、薔薇の花のように鮮烈な色彩を放つ。
先ほどまで闇に脅えていたはずなのに、今はその闇をも従えて自分へと向かってくる。
「この先からはもう、引き戻ることすらできまい。それでも進むというなら私には止める理由がありません。どうぞ、貴女が信じるように行きなさい。……貴女の信念が砕け散るその時まで」
「わたしは絶対に目を逸らさないわ。どんな結末が待っていようと………必ず行き着いてみせるっ!」
「クスッ……この情熱をいつまでも引き止める訳にはいきませんね。さあ、運命の子よ。私の言葉をよく聴きなさい。貴女から見て、右側の壁に斧が突き刺さっている。ここに落ちたものが失望して首を切るように置いてあるものです。もう何年もそのままで錆付いていますが、貴女の手かせを壊すことなど訳ないでしょう」
どくんっと鼓動が跳ねた。
どくんどくんと、それは待ち望んでいた運命の時を知らせるファンファーレのようにハニーの胸に広がる。
自分を押しつかせるように一度大きく息を吐くと、ハニーは言われるように壁際へと移動した。
どう足掻いてこの闇の中、全てを見通すことなどできはしまい。
だが自分を信じることは出来る。
見えないものへの恐怖に竦む足を叱咤し、恐る恐る手を伸ばした。
「そう、そのあたりです。貴女の手を傷つけないように気をつけて」
本当に斧など存在するのだろうか。
もしかすれば男にからかわれている可能性もある。
いや、それ以外考えられない。
この男は出会った瞬間からハニーを面白がって翻弄させることばかりを口にする。
しかし……それでも暗闇を突き進むのは今のハニーには男の言葉を信じる以外、何もできない。
それが悪魔の甘言であっても今はそれが全てだ。
ハニーの手が触れた冷たく湿った壁の感触が不意に変わった。
それは異様な突起のようだった。
興奮に体中の血が沸騰しそうだ。
「あった!!!!」
感情のままにハニーは叫んだ。
男は嘘など言っていなかった。
これで、開放される。
そう思うと居ても立ってもいられず、ハニーは乱雑に自分の腕に食いつく手かせを斧に引っ掛けた。
早くこの拘束から解放されたい。
少しでも自由を手に入れたい。
抑圧された者の妄執とも取れる勢いのままハニーは両手に力をかけた。
もし、このまま何かの弾みで手首ごと落ちてしまっても、後悔はしない。
やっとつかんだチャンスを前にハニーは必死だった。
ただ手が自由になるだけ。
この先に待ち受けている幾重もの苦難がなくなった訳ではない。
そればかりか、今はこの暗闇から抜け出ることさえ叶わずにいるのに。
それでもやっとつかんだ希望の光を見失う訳にはいかない。
ガチンッ―――。
重々しい金属音がすぐ側で響いた。