黎明の刻6
ざわりと闇が揺れた。
もしかしたらハニー自身が傾いだのかもしれない。
もう体の感覚が分からない。闇に、見えぬ男に、与えられた恐怖がハニーの体を捕えて離さない。
怖い。心からそう思った。怖い怖い怖い。偽ろうとしても騙せない恐怖心。それは何も見えぬほど感度を研ぎ澄ます。
何も見えないはずなのに。
相手はハニーの全てを見つめている。正体を言い当てられ、咄嗟に声が出ない。
血に濡れた女王の名を知っているならば、相手はハニーの敵だ。
相手の出方次第で、ハニーはまたあの護送車に戻されてしまう。
干からびた体から、どっと冷や汗が流れる。
地上にいる騎士たちにも感じたことのない恐れがハニーを包む。
だが相手はハニーの思惑などお構いなし。
血に濡れた女王と知って馴れ馴れしく口をきく。
「クス。そんなに固くならないで。ねえ、囚われの身同士、仲良くしましょう」
「囚われの身?」
ハニーは怪訝に眉を潜めた。
捕らえられた者は死ぬまで出ることを許されない嘆きの塔。彼はここの繋がれた囚人だと言うのだろうか。
しかハニーの記憶では嘆きの塔はここ数年使用されていないはずだ。
もし他の収容者がいれば、ハニーをこの塔にはいれたりなどしないだろう。
余裕のない思考を懸命に巡らせ、この闇のゲームをどう切り抜けるか次の手を考えた。
しかし、この地下牢という遊戯盤は彼のテリトリーだ。
ハニーを窮地に追い込むように、相手は面白がってハニーの心を玩ぶ。
「そう。ここ数年、他の収容者はいません。聖域は嘆きの塔を封鎖すると宣言しましたからね。だから私が最後の収容者です。クスッ……それほどに聖域は私が怖いのかな?」
「な、なんで……」
「なんでわたしの考えたことが分かるの?そう言いたいのですか?生憎とそんなことは誰だって簡単に予測できますよ。貴女はすぐに顔に出る」
闇の中から表情のあり方を指摘されるなんて。ハニーはただ言葉なく、息を飲んで答えるしかない。
相手はまるで他人事のようのように軽やかに自分の身の上話をする。
相手は掴みどころのない声で歌うように話しているだけ。
でもそれは真実ではない。彼の隠しきれない闇が更にハニーを恐怖させ混乱させた。
相手の意図がハニーにはまったく分らない。
(何、この男。ふざけてるの?それとも本気なの……)
渇いて焼けた喉を鳴らした。
威勢がいいのは、口だけだ。焦燥に駆られたその瞳には目の前のゲームの成り行きさえ捉えきれない。
「クスクス……本当ですよ?………それにしても貴女をこの塔に入れたということは、聖域はもう私が死んだものだと思っているんでしょうね。困りましたね~確かめもしないで安易に判断されるなんて。私はまだ死ぬ気はないのに」
困ったように笑う声に自嘲が混じる。
その声がどこまでも空々しく、禍々しい。
彼が口を開いた瞬間、もう堕ちるところまで堕ちている闇に更なる憎悪が広がった。
肌を舐める感覚にハニーは震えが止まらなかった。
本当は逃げ出したい。聞くことも相対することも、この闇にいることも全て捨てて自分の殻に閉じこもって、全てをなかったことのようにしたい。
ハニーを包む影なき恐怖がハニーの心にそっと入り込み、彼女の弱い部分を誘惑する。
もう諦めてしまえと。全てを放棄し、闇に恐怖し、狂ってしまえと。
そうすれば楽になる………。
(怖い……もう嫌だ……でも…………)
そっとすり寄る負の感情を薙ぎ払い、ハニーは勢いよく顔を上げた。
(……でもまだ……わたしは進まなければならないっ!)
暗闇で燃えるような金色が輝く。
ハニーは真っ直ぐに前を睨みつけながら、自身の心を読まれぬように武装して抑揚なく問うた。
「あなたは誰?」
「私?私はただの歴史学者ですよ」
しぶとく闇に食らいつくハニーを面白がるように声が闇を踊る。
やっと闇に慣れたハニーの眼差しがおぼろげな男の輪郭を捉えた。
細長く揺れる影を正面に見据え、抑揚なく問う。
「何で…?何故歴史学者がこんな場所に?」
「さあ?何故でしょうね。ただ言えるのは、私の研究しているものが教皇様はお気に召さなかったらしい」
「研究しているもの?」
声が震えるが、問わずにはいられない。
聖職者でもない学者が、聖域の最果ての砦に囚われているなど聞いたことがない。過去、この塔には危険な異端思想を広めようとした宗教家達が収容されていた。
ただの学者が、聖域の逆鱗に触れるような行いをしたのだろうか。
そんなことありえるのだろうか。学門を極める者が聖域に仇となることなど……。
ハニーは彼の言葉をうまく自分の中で納得できず、不可解な感情に顔を顰めた。
そのハニーをどこか哀れむように、優しく穏やかに声が答える。
「ええ、悪魔のフォークロア。それは――――聖域によって消された敗者の歴史」
「悪魔のフォークロア?」
初めて聞く言葉なのに、言葉に呼応するように心臓が跳ねる。
ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。
それでも聞かずにいられない。
聖域によって消された敗者の歴史………それは今まさにハニーが置かれている状況ではないのか。
声を上擦らせ、ハニーは恐る恐る問いかけた。
「貴女の知っている歴史というものは、常に勝者のものです。では、敗者達の歩んだ真実はどこにあるのでしょう?」
ズリッと空気が揺れた。
ハニーの見つめる先でおぼろげな男の輪郭が足を組みかえる。
「それは格式高い歴史書ではなく、格調高い聖堂の絵画でもない。語ることを禁じられた者の歩んだ歴史は、見えないところでひっそりと生きているのです。時に人々の生活の中に、時に形を変え村々の口伝に、あるいは呪いや歌の中に紛れ込んで伝えられる。密やかに人々の営みと共にあり、人知れず人々の心に根を張っている。それを一つ一つ掬い取るのが私の役目です」