黎明の刻3
車輪は一度大きく軋む音を上げ、馬車を止めた。
まだ明けやらぬ空に包まれたゼル離宮を離れ、どれだけの時間が経ったのだろうか。
ハニーは側にいる男に気付かれないように小さく喉を鳴らした。きっと休息を取るために馬車を止めたのだろう。
ドクンドクンッと高鳴る鼓動を必死に抑えつけ、ハニーは粛々と男達に従って馬車を降りた。目隠しの為の麻袋で周りは何も見えないが、そのためか視覚以外の感覚が研ぎ澄まされる。
闇しか見えない先を見つめ、ハニーは金色の瞳を輝かせた。
これが最初で最後のチャンスだ―――――……。
あの惨劇の後、駆けつけた騎士に捕らえられたハニーは翌朝、まだ日も昇らない内に秘密裏に聖域へと護送されることとなった。
何をしでかすと分らない。早く聖域にこの悪魔を運ばなければ。
その場にいた枢機卿らがハールート・マールートにそう訴えているのを、ハニーは騎士たちに取り押さえられ、血に染まった床に押し付けられたた状態に耳にした。
力の限りに押さえつけられ、意識が朦朧とする中でハニーはぼんやりとその言葉の意味するところを考えた。
(そうか、わたしは聖域で処刑されるのね)
自分の生命の話をどこか上の空に聞いていた。
まるで他人事だ。
生に対する執着も、あの一瞬の執念のような炎もこの時のハニーにはなかった。
燃えカスのように胡乱な瞳で、先ほどまで一番の友人が眠っていた真っ赤に染まった床を見つめる。
哀れな美しい人はすでに別の場所へと運ばれたようだ。彼女の体から溢れた真っ赤な情熱だけが床を染め、彼女の居た事実を伝える。
(エル……)
もう涙さえでない。
干上がった心を抱えたハニーは抜け殻だった。
ただ諾々と騎士たちに従い、案山子のようにぞんざいに扱われて城で一番高い塔にある小さな小部屋に押しやられた。
牢ではなかったが、むしろ牢の方がましだったかもしれない。小さな小部屋に掲げられていたのは、幼いエルとハニーの絵姿だった。屈託ない笑みを浮かべ、頬を寄せ合うその姿が今のハニーには針の筵以上に辛かった。
光すら失った瞳から止めどなく涙が流れていた。僅かに開いた口から零れるのは、謝罪の言葉ばかりだった。
あれはもう廃人だ。
ハニーを見た者達は口々にそう言った。
冷たい床に倒れ込んだ赤い髪の人形。だが、赤い髪に隠されたあの金色に輝く瞳を見れば誰がそのように言えただろうか。
彼女の瞳の奥にはまだ、けぶるように燃える情熱があるのだと知れば、誰もが思慮浅さを呪ったことだろう。
ハニーの心が死ぬなどありえない。彼女の中で燃えさかるのは果たすべき約束。その思いを果たす為ならたとえ手足が捥げようと彼女は消してその歩みを止めない。
(たとえこの身が朽ち果てようと、エル、あなたとの約束は絶対に守る)
固く誓った信念のみがただハニーを突き動かす。真っ暗な小部屋で、ハニーはただそれのみを考えていた。
どうすれば、この状況を打開できるのか。どうすれば絵姿のようなエルを取り戻せるのか。
チャンスがあるとすれば、それは離宮から聖域に着くまでの僅かな間である。死んだ顔にはそんなことをおくびも出さず、ハニーは忙しなく頭を働かせた。
深淵の闇の中、燃えるような金色が鋭く輝いた。
そして明朝、運命の時刻がやってきた。
小部屋の中で顔を麻袋で覆われ、体を幾重にも拘束され、厳重に捕縛された状態でハニーは簡素な馬車に乗せられた。
窓のない、罪人を運ぶための馬車にはハニーともう一人、ハニーを監視するための騎士が乗り込んだようだ。
何も分らない状況のまま、それでもハニーは体の全神経を集中させ、気を張り巡らせた。
ハニーたち一向は昼に一度僅かな休憩を取った他は、ずっと馬車を走らせている。
馬車の他に数名の騎馬がついているのか、複数の蹄の音が絶えず馬車の横から聞こえてくる。
馬車の車輪が大きく跳ねた瞬間、その単調な蹄の音が不意に止んだ。
「本日はここでお休みいただきます」
ハニーの心臓が大きく跳ね上がった。
騎士たちはハニーを古びた塔に押し込めると、顔や手の拘束を解くことなく塔の外に出て行った。
悪魔の下僕へと堕ちてしまった女王には、どんな情けもかけないと心に決めているのだろうか。
なんせ相手は、世界を混沌に帰そうと企てた魔女。
同じ空間にいることすら嫌悪するのだろう。
これはハニーの為の休息ではなく、自分達の為の休息なのだ。
暗い夜の森を走り続けるのは危険だ。
何より彼らは血に濡れた女王を聖域まで護送するという大任を受けている。
与えられた任務へのプレッシャーが彼らを常以上に追い込んでいるのは確かだ。
彼らを疲弊される要因であるハニーが側にいてはおちおち休んでなどいられない。
ハニーを自分達の視線に入らない、それでいてけして逃げ出さない場所に追いやって彼らは初めて心からの安堵を得るのだ。
そういう点で、この塔は彼らの要望に叶っていた。
ここはゴモリの森の果て、ウォルセレンとの国境付近にある、古の昔から聖域の牢獄として使われている『嘆きの塔』。
天井まで吹き抜けの塔は堅牢な石造りである。天井付近に小さな明り取りの窓が開いている他はまったく閉ざされた状態だ。
たとえ拘束されていなくてもか弱い乙女が一人、どう足掻いても逃げ出すことなどできはしない。