序章~運命の瞬間~
美しい乙女たちの運命を別ったのは一体何だったのか。
どれだけの仮説を打ち立てても、彼女の前では砂の城の如く、虚脱感と無意味さしか残らない。どれだけ言葉を重ねても、彼女の前には如何ともし難い光景が広がるのみ―――。
彼女は言葉なく、薄暗い広間の中心に立ち尽くし、目の前にある真っ赤な海を呆然と見つめていた。
赤い赤い、真っ赤な血の海。
白く神聖な広間をあっという間に死という無情で染め上げ、その場に居合わせた者から生気を奪い去る。
時はその動きを止め、彼女の体を急速に凍てつかしていった。
氷漬けになったかのように、身じろぎ一つしない。ただ氷の中にして唯一燃えるような双眸は、強烈な威光を放ち、どす黒い血の海を睨みつけていた。
その赤い海の中に沈んだ乙女の姿がぽっかりと浮かんでいた。
真っ赤に染まった華奢な体躯は憐憫を誘い、儚くも美しい顔は白を通り越して、死者の色に褪せていた。その中で宝珠のような瞳が驚愕に見開かれている。
その乙女の瞳が、この神聖な広間で起こった凄惨な出来事の全てを如実に物語っていた。
ゼル離宮で行われた審判という名の裏取引。
その審判の場を惨劇の場に変えたのは、渦中の人―――魔女と噂されるエクロ=カナン王国の女王レモリー・カナンだった。
見る者を惹きつけてやまない、冴えいる月の輝きを湛えた青の瞳は今や見る影もない。若き女王は純白の身を血で真っ赤に染め、月の女王と美貌を謳われた面影さえも失っていた。
審判を下す為に集まった者達は皆言葉を失い、ただ立ち尽くす。
誰もが血の海を避けるようにその身を壁にへばり付かせ、呆然と目の前の光景を見つめていた。
広間に痛々しい沈黙が圧し掛かかる。
その彼らの視線の先にいるのは―――血に濡れた彼女と床に倒れた可憐な乙女。
白い大理石の床を真っ赤に染めているのは、乙女から流れ出る熱き血潮だった。死の波は乙女のドレスに鮮烈な赤に変えていく。
精美なレースで縁取られた流麗なドレスに包まれた白磁の肌がその中で一際青褪めて見えた。
その胸元に深々と突き刺さる剣は罪の楔のよう。鮮血に染まったそれが妖しく光り、滴り落ちる赤い雫は美しく輝く。
歌うような美声を紡いだ口はすでに声を失い、ただ何かを訴えかけるように微かに動くのみ。
それがただの生体反応なのか、それとも乙女に僅かに残思によるものなのか、もう誰にも分からない。
優しい色を帯びたその眼からは血の涙が流れ、底知れない悲しみを湛えている。それでもその瞳は何かを訴えるように側にいる彼女の方に向けられた。
その瞳が彼女の胸の奥を毟り、切り裂く。
彼女は広間の中心、鮮血の海の中に立ち尽くしていた。
親友の変わり果てた姿にただただ震える手で口を覆う。目を逸らすことはおろか、息を吸うこともかわない。
凍りついた体が限界に達して、弾け飛んでしまうのではないか。ぎゅっと噛みしめた唇が懸命に砕け散りそうな彼女を押し留めていた。
息もできない無情な静謐がその広間を覆う。
これは現なのだろうか。それとも泡沫の悪夢なのか……。
彼女の瞳は死の海に浮かぶ愛しい人しか映さない。
嘘だ……。無意識に零れた声すら意味をはしていなかった。
自らの頬に触れた手は凍えるほどに冷たく、感覚がない。
その痛々しい姿を見つめ続ける――これ以上の苦痛がこの世に存在するだろうか。願うなら全てを夢として、目に映る全てから逃げ出したい。
だがこの世は全て残酷に出来ている。彼女が眼の前の惨劇から目を逸らすことなどできようはずがない。
「何故―――……」
全て、その一言に尽きた。
やっと意味を成した言葉と共に冷たい雫が頬を伝う。真っ赤に染まったその頬に一筋の道が出来る。その清らかな輝きは音もなく、禍々しい赤に吸い込まれていく。
闇の蠢く空間で、それだけが一縷の清浄――たったひとつの真実であった。
そう―――その涙を浮かべる瞳が映し出すのは、紛れもない現実。
弱々しく途切れゆく吐息。苦痛に歪む美しい双眸。彼女に向けられたその眼差しは死の淵を彷徨いながら、それでも必死に訴えていた。
(…オネガイヨ……)
その麗しい人の口が弱弱しく、だが確かにそう動いた。
まるで雷に打たれたかのような激しい衝撃が彼女の体中を駆け巡った。
燃えさかる激情に、凍りついた時が乾いた音をたてて砕け散る。
沈黙に凍りついていた彼女の心臓が解き放たれ、まるでそうあるのが当然だとばかりに目の前の乙女と共鳴する。
ガンガンと耳の奥で血潮が沸き立つ。
感情すら凌駕するこの高鳴りがなんなのか。彼女にも分からない。でもそんなことは些細なことだ。
弾かれたように、形振り構わずに親友の側に駆けた。押し寄せる全てから逃げ出すように、無我夢中で血の海を渡っていく。長いドレスに足を取られ転びそうになっても、踏み切る度に跳ねる赤い雫に滑りそうになっても、彼女は足を止めようとしなかった。
ただ目の前の愛しい人の側へ……一直線に突き進む。
赤い死の海に人の心をかき乱すさざ波が立つ。
彼女の心には抗うことすら許さない暴風が駆け巡っていた。
爆ぜる情熱。輝き増す信念。それなのに………心とは裏腹に、絶望が足を絡め取る。
たった十数歩の距離が今はもどかしくて、恨めしい。
懸命に手を伸ばしてもなかなか埋まらないこの間には、けして越えられない壁があった。
走る度に悔恨の念が込み上げてきて、耐えきれずに彼女の勝気な瞳から溢れだす。瞳から零れ落ちた清浄な雫を遠く後ろに残して、彼女は力の限り足掻いた。
一度動き出したら止まれない。体が、心が、一番大切な親友を求めてやまない。それが必然であるように彼女はただただ彼女の側へと走り寄る。
「……なんて無情な女。悪魔!!」
広間の端、誰よりも彼女達と対極にいた白い司教の服の男が非難に満ちた声を上げた。
緊迫した広間に動揺が走る。憎悪に染まった瞳が蔑むように彼女を睨みつけた。
男につられるよう、金縛りから解放された他の者も彼女を呪う言葉を吐きかける。 それはさながら言葉の刃であった。血に染まった彼女の心を更に傷を付ける。
だがそんな刃が何の足止めにもなるだろうか。彼女はもう痛みさえ分からないほどの傷を負ってしまったのだ。
死の淵に落ちていく、唯一無二の親友。早く手を差しのべて、彼女を救わなければ……。
そんな妄執に取り付かれた彼女には、もう大切な親友しか見えていない。
彼女は血溜まりを突風のように疾走し、血溜まりに躊躇することなく座り込んだ。無我夢中で血の海から乙女を抱き起こす。
「……あぁ……あぁ……なんで……」
彼女の悲痛な嗚咽が沈んだ広間にこだまする。
彼女の痛々しいかすれ声が凍りついた広間を悲しみに震えさせ、見つめる者の胸に重く沈む。
彼女は親友を抱きしめてその青白い頬に手を添え、必死に愛しい人の名を呼んだ。
「エル!目を開けてぇぇ!!お願いぃぃぃっっっっ!!!!!!」
その瞳はすでに彼女を捉えることができぬほど光を失っていた。
どんよりと濁ったそれは悲しみの湧き出る泉のよう。止めどなく流れる涙を止める術を失っている。
その泉が枯れた時が乙女の最期だと誰もが予感した。
それでも最後の力を振り絞り、乙女はその白い手を震わせながら血と涙で汚れた彼女の頬へと手を伸ばす。
彼女の頬に触れ、いつものように微笑もうとしたのだろう。
しかしその表情には常の輝きはなく、歪だった。
祈るように伸ばされた手はその指先で彼女の頬に微かに触れた。
だが――――……その瞬間、力尽きた。
無機質な動きで血溜まりに白い腕が落ち、床に溢れる血を弾く。だらんと弛緩した体躯が彼女にずしりと圧し掛かる。
一体、何が起きているというのだろう。
華奢な腕が懸命に守ろうと抱き締めるその間を縫って全てが零れ落ちていく。
もう間に合わない……。認めたくない予感が確信に変わった。
動かなくなった親友を抱き締めたまま、彼女は動けなかった。抱き締める最愛の友はこんなにも温かなのに、体の奥が凍りつきそうなほどに冷えていく。
受け入れたくない事実が徐々に真となる。
無情な時が可憐な人の命を切り裂こうと牙を剥く。
その全てに刃向かうよう、彼女は強く親友を抱きした。だが、それでも流れ出る生命の源は止まらない。どす黒く、錆びた赤が彼女を染めていく。
「エル!目を開けて!エル!!」
いくら問いかけても返事は返ってこない。だらんと弛緩した体躯はもう人とは呼べない。
その事実を突きつけられ、彼女は戦慄いた。
「………いや………ぃぃいいやあああぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ………!!!!!」
悲痛な慟哭が広間を震撼させた。まるで理性などない獣の咆哮だった。
自分の半身を切り刻まれたかのような悲痛な声に血溜まりにさざ波が立つ。
血に染まった広間に冷たく陰鬱な空気が圧し掛かり、さっきまで彼女に呪いの言葉を突きつけていた男達も言葉を失った。