孤高の王子5
あの瞬間から、彼女の絶叫がウヴァルの耳を離れない。
図らずしも惨劇が起きてしまった。
もう自分の非力ではもうどうすることもできない。
血に濡れた女王は駆けつけた近衛兵達に捕らえられた。居合わせた枢機卿達の話し合いによって、すぐさま聖域に移送されることが決定した。
もう彼らの力だけではどうすることもできないほど事態は悪化していたのだ。
全ての判断を教皇に仰ぐため、早急にこの悪魔を聖域に運ばなければ………。彼らは深刻な顔の下で自分の身の保身だけを考えていた。
抵抗する気力さえ湧かないのか、血に濡れた女王は屍のように項垂れ、成り行きに身を任していた。元々細い体が痛々しいほど華奢に見えた。
それが、ウヴァルが彼女を見た最後だった。
次の日の夜明けごろに、血に濡れた女王を乗せた聖域に向かう粗末な馬車を遠く窓越しに見送った。
あのか細い体はどこへ消えてゆくのか。
先の見えない不安に怯え、それでも自分がしっかりしなければとウヴァルは自分を奮い立たせ、馬車が見えなくなるまで目で追い続けた。
その側で一番下の弟、第二王子キアスも幼いながらに何かを察したのか、ぎゅっとウヴァルの服の裾を掴んだ。
「おにいちゃま、何を見てるの?」
不安に揺れた大きな瞳でじっとウヴァルを見上げてくる。
そのあどけない表情にウヴァルは胸を締め付けられた。
(俺が守らなければ……)
弟の柔らかな髪を撫で、ウヴァルは心に誓った。
だが現実は更に重く圧し掛かり、彼を蹂躙する。
狂ってしまった女王が一筋縄でいくはずがなかったのだ。
移送の途中で立ち寄った聖域の牢獄―――嘆きの塔から血に濡れた女王は逃げ出したというのだ。
そして、その行方は杳として知れない。
早馬から知らせを受け取ったのは、離宮で惨劇が起きた2日後の昼のことだった。
ただ今は遠くこの城から深いゴモリの森を彷徨う、血に濡れた女王に成り果てた悪魔が騎士に取り押さえられるのを黙って見守るだけ。
「…俺がもっとしっかりしていれば……」
泣きそうになるのを必死に我慢しているその声はまだ十代の少年で、姉を支えようと懸命に背伸びしていた王子のものではなかった。
不意に彼の物想いを遮るよう、重たい音と共に木の扉が開いた。
弾かれたように振り返ったウヴァルは来訪者の顔を見て、厳しい表情を緩めた。
「おにいちゃま」
無邪気な笑顔で入ってきたのはキアスだった。
まだ十になったばかり。
年の離れた幼い王子は姉兄同様、エクロ=カナンの特徴を色濃く受け継いだ顔立ちであるが、末の王子である為かおっとりした甘えっ子気質がその顔に表れていた。
無垢であどけない雰囲気の弟はその手に余る大きな猫をぎゅっと抱きしめていた。
彼が歩く旅にまるまる太った猫の巨体が左右に揺れる。
キアスの抱擁が気に入らないのか。どこか憎めない不細工な顔をしかめ、猫はナォンと低く不満の声を上げた。
「マルコがね、奥の広間に行きたがるんだ。だからおねえちゃまにお願いしようと思うんだけど、おねえちゃまが見当たらないの」
猫の苦言に耳を貸さず、キアスは大きな瞳の上の薄い眉を困ったように寄せた。
ウヴァルは小さな弟を側に呼び寄せると、その小さな体をぎゅっと抱き締めてやった。
キアスはされるがまま、大きな目を不思議そうにパチクリと瞬かせる。
「…おねえちゃまは、今お出かけ中だ」
「何時帰ってくるの?」
抱き締められたまま、弟は大きな瞳をくりくりさせ、不思議そうに兄の顔を覗き込んだ。
苦悩に満ちた兄の顔。幼い弟王子にも何時もの澄ました雰囲気と違うのが分かった。
不安げな弟の頬をそっと撫で、ウヴァルは強張った笑みを浮かべてみせた。
「…もうすぐ帰ってくるよ。大丈夫。それまでおにいちゃまがおねえちゃまの代わりだ」
「すぐって何時?」
「すぐはすぐだ。それまで俺たち二人で国を守らなければならない。お前にも出来るな」
「うん。皆に優しくすればいいんだね。いつもおねえちゃまがやってるように」
「…そうだな。優しくしてあげなさい」
無垢な弟は姉の真実の姿などまったく知らない。
何故常の住まいである王城を離れ、ここゼル離宮に留まっているのかも分からないのだろう。
(それでいい。全て真実は俺の胸の中に)
ウヴァルは柔らかい弟の髪を優しく撫で、抱き締める手に力を入れた。