孤高の王子3
「し、しかし……。悪魔などはこの世にはいないのだろう。すでに地獄に封印され、この世に出てくることはできない。そう教えてくれたのは他でもなく貴方だ。大司教!」
震える声を抑えられず、ウヴァルは強張った顔のまま、ただハールートの言葉を待った。
彼ならば、悪魔などという妄想を打ち消してくれると思っていたのに。
結果は彼を更に震撼させただけだ。
「確かにそう謂われています。聖教史では、古のシモン王によりこの世の悪魔は全てひとつの壷に封じられた。シモンの王はその強力な力で悪魔達を従え、使役したと謂われます。しかし悪魔を呼び出すには王しか知らない魔法陣と屈強な精神力が必要だ。よって壺の悪魔は王の死後、ただ壺の中で最後の審判を待つだけの存在となったのです。壺とはこの世界とは異なる所。つまりはこの世には存在しないと言えるのです。………しかし、それでは何故、それ以降も悪魔を崇拝する輩が現れるかご存知ですか?」
穏やかな碧眼を意味ありげに細め、ハールートは哀れむようにウヴァルを見つめた。
その問いに首を横に振って答える。
「これは聖域でもあまり知られていないことです。ウヴァル様が知らなくて当然。それは……」
「それはなんだ!」
答えを焦ってウヴァルは身を乗り出した。
それを知ることが自分から離れたレモリーを知ることだと信じたかった。
息急ききったウヴァルに落ち着くようにと、その手で制して、ハールートは鷹揚と頷いた。
「悪魔崇拝者が存在するのなら、その者たちは悪魔の存在を確信しているということです」
そう前置きをするとハールートは朗々と語りだした。
悪魔がいないこの世界は正常であり、それが世の理だと。
それが聖域の治める秩序に則ってあるべき姿であると。
しかしその理を曲げ、異常を生み出すのが悪魔を召喚する魔方陣である。
悪魔にはこの世に現れるための肉体がない。
肉体を持たない者は、誰かしらの力を得なければ空気に霧散してしまう。
悪魔はこの世で動くためにこの世にいる証、つまり存在理由を得なければならないのだ。
それが人との契約であり、契約を結んで人の欲を叶える。
人の欲は更なる欲を呼ぶ。
こうやって自分たちの居場所を確実に得ようとしていく。
悪魔は再びこの世で悪の限りを尽くそうと、あの手この手でこの世を干渉しようとしているのだ。
「そ、それは本当か?」
「そう聖域では伝えられています。ただ残念なことに、神に仕える私どもは悪魔を召喚する際のルールなど知りようがありません。これは長年、多くの司教たちが悪魔憑きなどの者を調伏した経験から得たものなのです。しかし悪魔は確かにいるのです」
そう言うとハールートは小さく息を吐き、かけていた眼鏡をはずした。
「私も女王陛下の不審な行動をずっと気にしていました。もしかしたら、陛下はそのような書物を手に入れられたのかも知れない。悪魔を描いた書物は、人が書いたとは思えないほどの瘴気に包まれ、手にした者を地獄へと誘うという………」
悪魔を描いた書物。
それはどれほど禍々しいものなのだろうか。
もしそれをレモリーが手にしていたとなると……。
あの高潔な姉がそんなものに何かを求めると考えにくい。だが、一国という重みを背負っている彼女が気まぐれにその書物に戯言の解決を求めたら…………。
ウヴァルは見えないものの存在に身の毛がよだった。
「ウヴァル様、私は一度無礼を承知でゼル離宮に向かわれた女王陛下の後をつけたことがあります」
「何?」
静かにハールートは口を開いた。
しかしその内容はその声に反して、ウヴァルに衝撃を与える。
「陛下は地下の開かずの間となっている最奥の間で数人の者と円を組み、何かを唱えていました。その場には悪魔を象徴する山羊に似た化け物の置物があり、円の中心には鋭い剣で胸を貫かれた若い女が横たわっていました」
ウヴァルの硬質な顔に戦慄が走る。
まさかそんなことがある訳がない。
そう心で打ち消そうとしても、次から次へと女王レモリー・カナンを彩る不穏な噂が胸を掠める。
消えた村、消えた公爵、血まみれのドレスで森を彷徨う姉。
ただの噂だと一縷の希望に縋っても、ウヴァルの心はもう現実に目を逸らすには限界だった。
今にも泣き出しそうなウヴァルを心底哀れんだ表情で見つめていたハールートだが、意を決して続ける。
「あまりの恐ろしさにすぐに引き返してしまいましたが、あれは悪魔を召喚する儀式か何かでしょう。私はどうすればこの事態を止められるかずっと考えていました。ですが、悪魔崇拝者であっても貴方のお姉様はこのエクロ=カナンの女王です。一国の女王が悪魔崇拝者など表だって告発することはできない」
ハールートは苦悩に眉を寄せると大きく被りを振った。
彼もまた悩み続けていたのだろうと、ウヴァルは感じた。
聖域が公式にエクロ=カナンの国主が悪魔崇拝者であると認めれば、国中の人全てがその害をこうむる。
エクロ=カナン全体が悪魔崇拝だと糾弾されているのと同じだ。
そのような弱った国を周りの列強達はほおってはおかない。
自国の領土を広げるため、国同士の熾烈な争いが始まる。
「確かにそうだ。国民が不安がる。しかしこのまま放置する訳にも……」
言葉を切り、ウヴァルは呆然とした。
自分はどうしたいのだろう。
その言葉の先をウヴァルよりはっきりと確信したハールートががっしりとウヴァルのか細い手を取った。
力強く頷くと真剣な眼差しで訴え掛けた。
「ウヴァル殿下!事は一刻を争うところまで来ています。もう限界だ。私は聖域にこの事実を秘密裏に報告します。大丈夫、私の出身であるウォルセレンを通じれば表に出ることはない。そしてこれ以上女王陛下が悪魔の虜となる前に何処かに幽閉してしまいましょう」
「幽閉だと……」
ウヴァルはたじろいだ。
尊敬する姉を幽閉するなど彼には想像もつかないことだった。
しかしハールートは彼の狼狽を是としなかった。
有無を言わさない力強い声で彼を説き伏せようとする。
「そうです。表向きは病に倒れたことにして、ゼル離宮にでも一時幽閉するのです。その後のことは聖域に任せて」
納得しかねるとばかりにウヴァルの表情が曇った。
女王を幽閉できるのは、今この場にいるウヴァルをおいて他にいない。
そのウヴァルを諭すように、ハールートはか細い肩に手をかけた。
「お辛い気持ちは分かります。ですがこれは国の為ですよ。気をしっかり持って。厳しいことを言いますが、これからは女王陛下に代わり貴方が国を率いていかなくてはいけないのですよ」
それは決断の時だった。
冷静で、真摯な瞳がウヴァルの答えを静かに待っている。
ウヴァルは強張った表情のままごくりと唾を飲んだ。
「分かった。そのように手配しよう」