孤高の王子2
エクロ=カナンに降り注いだ厄災の原因はなんだったのか。
全てはエクロ=カナン王国の大司教ハールート・マールートが聖域に対し、エクロ=カナン女王レモリーの異端思想を密告したことに端を発する。
聖域の決定は世界の絶対だ。
聖域は絶対不可侵において、世界唯一の干渉者である。
聖域が世界の理性と法の全てを司り、その権力は各国の王権など及ばぬほどに強力だ。
ただ聖域自身が一王国に対して直接的に動きかけることなど、聖域が築かれて千年、一度もなかった。
その唯一の例外となった彼女にかけられた嫌疑は、神への冒涜。
神をも恐れぬ彼女は、世界を千年前の混沌に戻そうとしていると――。
そして彼にその切掛けを与えたのは他ならぬウヴァル自身だった。
しかしそれも仕方のないこと。
彼の姉、レモリー・カナンは明らかに常軌を逸した思想に囚われていたのだから。
深き森に囲まれる小国エクロ=カナン。
この国で、彼の姉がレモリー・カナン王となったのは彼女がまだ十四の時だった。
まるで湖上に浮かぶ月のようだとその美しさを湛えら、各国の王侯貴族から『月の女王』と呼ばれた若き女王。
その神秘的な魅力に、見る者は皆感嘆なしではいられないとまで謳われたほどだ。
だが大国の王国貴族の多くはエクロ=カナンを取るに足りない存在だと考えていた。
それも仕方のないことである。
大陸の北、しかも国の大半を深い森が占めているエクロ=カナンにはこれといった産業もない。
その上、年端もゆかぬ少女がその国の頂きに立っているのだ。
軽んじられて当たり前である。
社交界に彼女が現れても、その思惑が彼らの態度に如実に表れていた。だが彼女もそれを当たり前に受け止め、けして派手なことはしない。
そして侮られないように、卒なく立ち回る。
それは列強と呼ばれる大国に囲まれた小国が生き残る術であった。
しかし誠実な彼女のあり方に、国民は尊敬と親愛の情を日に日に強めていた。
彼女の統制の下、然したる争いもなくエクロ=カナンには変わらない日々が続いていた。
さりげないほど当たり前で、そして穏やかな日々が………。
その麗らかな春の陽光のような日々が陰り始めたのはいつごろからだろう。
気づいたときにはその影がエクロ=カナンの地を覆っていた。
灰汁のように不意にわいて出た悪意。
初めはどこにでもある噂だった。
立場があり、注目される存在だからこそ、ありもしない醜聞が生まれたりもする。
しかし怖いのは、その思い付きのような噂が一人歩きをし始めることだ。
噂は病原菌のように散布し、穏やかな小国の陰に蔓延した。
火のないところに煙は立たない。
女王を尊敬する国民たちは話半分に聞いていても、心のどこかでそう感じるほどに、そこかしこに煙は立ちあがった。
それは大きな火種となり他国に飛び火した。
人の口に戸は立てられないとはよく言ったものだ。
深い森に囲まれているために他国との通行手段が限られ、交易もさして行われていないはずのエクロ=カナンからその悪意が各国に広がるまでそう間はなかった。
特に人の醜聞を好む暇を持て余した貴族達に好まれ、噂は尾ひれをつけ形を変える。
エクロ=カナンの女王レモリーは悪魔崇拝の信者である。
そう囁かれていた悪意が彼女の唯一無二の親友の耳に届いた時にはもう初めの形を失いつつあった。
「レモリーは悪魔をこの世に解放し、世界を千年前の混沌の闇に帰そうとしている」
その言葉に親友である美しい人は唖然とし、言葉を失った。
そして各国の王侯貴族の中では、『月の女王』から一転。女王レモリーは黒いマントに身を包み、自らの体を血で真っ赤に染めた魔女へと変換されてしまった。
たかが噂である。
ウヴァル自身も何度もそのような噂を耳にした。
だが所詮は一国の主君への妬みであろうと、あまり気にはしていなかった。
姉レモリーは彼にとって最高の人で、理想の国主であった。
その事実を彼が知っていればそれでいいと考えていた。
あえて噂のことを持ち出し、レモリー自身を傷つけるのは彼の意図する所ではない。
王宮の者も多くがレモリーの人柄を知り、噂をただの噂だと捉え、けして敬愛する女王の前で口の端に上らせることはしなかった。
そうやって表面的には穏やかな日々が続いていた。
しかし……。
ウヴァルはその当たり前の日々に漠然とした違和感を抱いていた。
確かにレモリーは王位継承後、王という責務の所為か以前のように笑わなくなった。
時折その表情に影を帯びる。
疲れているのだろうと思っても、国王になった姉にどのように声をかけていいのかウヴァルには分からなかった。
悩んでは声をかけるタイミングすらつかめずにいた。
しかしレモリーはそんなウヴァル達と距離を取るようになった。
何かに苦悩し、ウヴァル達を退け、何かに没頭するように一人王宮を出て、王宮からわずかに離れたゼル離宮を常の住まいとした。
それがいつしか、そうあるのが普通となっていた。
ウヴァルが問いかけてもレモリーは曖昧に微笑むだけ。
その微笑が彼の知っているものではないと気づいた時にはもう取り返しのつかないところまで来ていた。
そのころ、ゼル離宮近辺の村々では集落が忽然と消えるという不可解な事件が起こっていた。
理由は分からない。村々を巡って物を売る隊商がつい数日前に訪れた村から人気が一切消え失せたと報告してきたのだ。
村はまるで人が生活しているかのように、そのままの形で人だけを消しそこにあったという。
どれだけ探しても村人はいない。
その報告を聞いてもレモリーは悠然と微笑んでこう答えるだけだった。
「どこかへ旅立ったのでしょう。捜す必要はありません」
そのどこまでも穏やかな笑みにウヴァルは戦慄が走った。
いつもと変わらず美しいレモリー。しかし何かが違う。
それでよいのかと、ウヴァルは何度もレモリーに捜索隊を派遣するように申し向けたが、レモリーは頑として認めなかった。
そして、ミルトレ公が治めるミルトレすら消え失せた。
ミルトレ公はエクロ=カナン王国諸侯の中では群を抜いて権力を持つ人物であった。
彼が現エクロ=カナン王室に警鐘を鳴らしていたのは有名な話だ。
その彼が消え、国全土で行方不明者が続出し、またゼル離宮の付近の町に住む者がドレスを血だらけにしたレモリーが森から出てくるのを目撃したという噂も囁かれ、全てがレモリーを陥れようとばかりに噴出していく。
まるで逆らえない流れに根も葉もない悪意が追随するかのよう、そこここでレモリーの名が貶められて囁かれた。
人をやって調べてもレモリーがゼル離宮で何をしているのかは、杳として知れなかった。
そんな断片的な情報しか手に入らない状況で、ウヴァルは不安で仕方なかった。
ある日、ふと気まぐれにその不安を大司教に漏らしてみたのだ。
エクロ=カナンの中心的教会ロアセル大聖堂を取り仕切る大司教ハールート・マールートは、まだ30歳半ばの穏やかな人であった。
文化の中心と謂われる隣国ウォルセレンの出身で、聖域での人望も厚い。
普通国の中心である教会の管理を任されるのは、それなりに年を重ねた大司教である。
それが40歳を前に大司教の地位に登りつめた彼は、末は聖域を動かす枢機卿か、はたまた教皇かと目されるほどの人物であった。
彼は聖教史や哲学に造詣が深く、忙しい身でありながら、ウヴァル達の教師としてその知識を惜しみなく与えてくれていた。
彼なら閉鎖的なエクロ=カナンの人間には思いもつかない答えを導いてくれる。ウヴァルにはそんな気がした。
「………申し上げにくいのですが、それは悪魔の仕業です」
話を聞いた大司教は戸惑った表情でしばし逡巡した後、大きく息をつくと居住まいを正してウヴァルにそう告げた。