表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/209

廃墟の天使10

「エル………」


 その響きにハニーは息を飲んだ。

 まるで言葉を習い立てた幼子のように、一つ覚えにその名を呼んだ。


「エル…エル…エル…エルエルエルエルエルエル…………」


 なんということだろう。

 この胸を突き上げる感情をなんて呼べばいいのか。

 大きな金色の瞳をこれでもかと見開くと、抱きつかんばかりの勢いで少年の肩を掴んだ。


「エル!あなた、エルっていうのね!」


 まさかこんな場所で『エル』の名に出会えるなんて。

 これを奇跡と呼ばずなんと呼べばいいのだろう。

 胸の奥がじんっと熱くなって、抑えきれない感情のやり場にもどかしくなる。

 興奮に胸が高鳴り、ハニーの頬は上気した。

 そんなハニーに反して、少年は何を噛みしめるように愛らしい顔に陰りを見せる。

 目をキラキラとさせながら自分を見つめるハニーを少年は言葉なく見つめ返した。

 しかしそんなものでハニーの昂揚した感情が落ち着くはずがない。何度もエルか、エルなのねと感嘆の吐息を漏らしている。

 しばらく何かを躊躇っていた愛らしい口から天使の歌声が零れる。


「そう……エル。僕はエルなんだ。………他は頭に靄がかかったみたいに思い出せない。でもはっきりと分かるのはエルという名前とあなたという存在。これだけ」


 それだけを吐き出すと少年は耐えきれず項垂れた。

 困ったように俯く少年にハニーは衝撃を受け、しばし言葉なく少年の肩を掴んで呆然とした。

 

(記憶喪失なのかしら?もしかしたら親に捨てられたのかも……わたしのバカ!彼には彼の事情があるのに、なんて浅はかなの!)


 一人勝手に盛り上がった自分が恥ずかしい。

 ハニーにとっては神の名にも等しいその響きだが、彼にとっては良いや悪いなどといった言葉だけでは割り切れない複雑な思惑を含んで聞こえるのだろう。

 世の中には信じられないことだが、自分の子を殺す親もいると聞く。殺さずには生きていけないほど過酷な生活を強いられている者もいる。

 この少年エルがどういう生い立ちを経て、この神殿に紛れ込んだのか。それはハニーにはけして分かることのない闇だ。

 もしかすればあまりに悲惨な生活に親に捨てられたのかもしれない。そしてそのショックで記憶さえも失ってしまったのか……―――。

 金色の瞳が今にも泣き出しそうな空のように曇っていく。

 今ハニーに出来ることは、ただ目の前にいる少年を包む暗い事情に思いを馳せることぐらい。どうしたって彼の人生全てと自分の人生を変えることなどできないのだ。


(でも……)


 それでも願わずにはいられない。この少年の未来が明るいものでありますようにと。

 他人を気にする余裕など一つもないはずなのに、ハニーの金に輝く瞳から涙が零れた。

 エルの肩を掴んでいた腕がその華奢な体を強く抱き締めた。エルの肩が自分の傷口に触れ痛みが走ったが構わずに力を込める。

 ただ抱き締めたかった。

 それ以外ハニーには何もできない。胸を吹き荒れるこの感情を上手に表現することも、彼を励ます言葉すら見つからない。

 自分の高ぶる情を抑えるようにただただきつく抱き締める。

 驚いたようにエルは目を見開いた。

 その血に濡れた頬に温かな涙が落ちて、彼本来のふっくらした白い肌が現れた。ハニーは止めどなく涙を流し、時に嗚咽を漏らしながら、何度も何度もエルに語りかけた。


「大丈夫……大丈夫よ。何も怖いことはないわ……エル。素敵な名前よ………大丈夫………」


 ハニーの口から零れるそれはまるで魔法の言葉のよう。

 少年は更に目を見開き、呆然とハニーの言葉に耳を傾けている。


「そう……何も恐れることはないわ。今はただ……少しだけ神様が意地悪してるだけ」


 戸惑う少年を言い含めるように強く言い放った。

 その言葉はエルの為であり、また運命に翻弄される自分への檄でもあった。城にいる幼い弟王子に言い聞かせるようにエルに目線を合わせ、頷いた。


「きっと何か怖いことがあって一時的に忘れているのよ。でも大丈夫。あなたの名前はとっても素敵な名前よ。……わたしの大好きな人と同じ。その人は誰よりも気高く、そして慈愛に満ちていた」


 瞳に浮かぶ大切な人。

 やわらかく微笑む美しい人の面影が目の前の少年とかぶった。

 もしかしたらあの神殿の光の中で少年エルと出会った瞬間から、親友エルの奇跡は始まっていたのかもしれない。

 何度神を恨み、運命を呪ったことか。

 それでも神は最高の喜びを彼女に与えてくれていたのだ。

 段々落ち着きを取り戻したハニーはゆっくりとエルから体を離した。ふうっと息をつき、目頭に溜まった熱い思いを拭う。

 そして誰もが見惚れるほど生き生きとした笑みを浮かべた。それは情熱の花が咲き誇ったかのように可憐で、光輝く太陽のように眩い。


「一緒にお城に帰りましょう。全てを終え帰りつけば、あなたの親を捜せるかもしれない。……確かにすぐには無理だわ。なんたって今のわたしは国を追われた罪人。聖域に連れて行かれる途中で脱走してきたんだもの。でも………でも絶対に真実を取り戻す。この国を蹂躙しようとする輩の好きにはさせない!」


 遠くゼル離宮で待ち受けているのは女王の帰還を歓迎する家臣ではなく、悪魔の女王の首を掻っ切ろうとしている騎士達だ。

 しかし譬え針の筵であってもあの場に戻らなくてはならない。エルに聞かせるというよりも自分への誓いだった。

 大きく息を吐き、もう一度強く少年を見つめた。

 この金色の瞳はもう絶望に染まったりしない。


「神なんていないと何度も絶望したわ。でも、天はわたしにあなたという神の子を遣わされた」


 エルはハニーの言葉に、どこか曖昧な困惑を浮かべる。

 是とも否とも取れる表情は何を意味しているのだろう。年端もいかない少年のこのような表情をさせる世の中とはどんなに過酷なところなのだろうか。

 だがハニーはそんな少年の影すら打ち払うように力強く頷いて見せた。

 そして勢いよく手を差し出す。


「エル!わたし達は友達よ。どんなに辛い夜もわたしが抱きしめてあげる。そして一緒に眩しい夜明けを迎えましょう」


「はい、女王様」


 差し出した手をたどたどしく掴んだエルは気恥ずかしそうに上目使いにハニーを見上げた。

 その絶妙な仕草の愛らしさにハニーは思わず頬を燃え上がらせた。

 しかしそのエルの呼びかけにふと引っかかりを覚え、だらしなく緩んだ頬を引き締めた。複雑に眉を寄せ、どこか幼さの残る不満顔を浮かべる。

 エルはハニーのことを何の躊躇もなく女王と呼んだ。

 確かにハニーこそ皆が恐れる血に濡れた女王なのだ。間違いではない。でもエルとの関係に王という堅苦しい名称は必要ない。


「女王様はちょっといただけないわね。…………わたしのことはそうね、ハニーでいいわ」


「ハニー?」


 キョトンとエルは首を傾げる。

 エルの滑らかな金の髪がふわりと揺れた。

 見上げる青の瞳。あどけない表情。純情無垢な少年はどこまでも愛らしくなれるようだ。

 何故だか動悸が逸る。思わず言葉が上ずった。


「ハ、ハニーっていうのはね、甘い甘~い蜂蜜のことよ。わたしのあだ名!」


 そう言うとハニーはにまりと口の端を歪めた。そして不思議そうに首を傾げるエルに片目を瞑ってみせた。


「いいこと?間違っても血に濡れた女王なんて呼んだら承知しないからね!」


 冗談半分、眉を寄せてエルを軽く睨んでみた。

 血に濡れた女王と呼ばれた自分の真実の姿をエルに知ってほしかった。だからあえて今まで口にすることすら厭うていた卑称を出したのかもしれない。

 さっきまで自分を切り裂いていた蔑みすら冗談として口にできるほど、心が余裕を取り戻している。

 そうだ。自分はこうでなくては。自分らしさが何なのか。朧げに掴みかけたそれにハニーは勝気な瞳をきらりと輝かせる。

 だがエルはきょとんとするばかりである。


「血に濡れた?なにそれ?なんで濡れてるの?」


 ハニーの言葉の意味が何一つ分かっていないようだ。

 これには威厳たっぷりに口を開いた自分が恥ずかしい。ハニーは顔を赤らめた。


「し、知らないの?そ、そうよね、記憶がないんですもの。はは…忘れてちょうだい」


 乾いた笑みを浮かべるハニーを真っ直ぐ見つめ、エルは素直に頷いた。


「分かりました。ハニー様」


「様も禁止!」


「はい!ハニー!」


 二人は顔を見合わせた。そしてどちらからともなく、顔を寄せ合って笑い合った。

 屈託のない笑い声が、いつの間にか日が落ちた朽ち果てた冥府に続く神殿に響いた。寄り添いあい、二人はお互いを励ますよう笑い続けた。


「あはは……あはははっ。何故かしら?笑ってる場合じゃないのに……こんなにも可笑しくて……涙まで溢れちゃうなんて………」


 ハニーは強張った顔を伝う温かい雫を拭いながら、喉を引き攣らせるように笑い声を上げた。必死に笑おうとしても、涙は止まらない。まるで我慢し続けた全ての感情が今まさに流れ出ていっているように思えた。

 それは悲しみであり、怒りであり、嘆きであり、憎悪であり、そして懐かしい慈しみの心でもあった。

 抱え込んだ感情があまりにも多すぎて、でもハニーはそのどれも手放す気にはなれなかった。どんな負の感情でも彼女の一部だ。どれ一つ無くしても、ハニーは血に濡れた女王でいることはできない。

 苦しみも痛みも全て抱えて、あの城に戻る。そう決めてここまで来たのだ。


「ごめんね……エル……でもけして悲しい訳じゃないの。ただうまく言葉にできないだけ。笑いたいのに、笑い声以上に涙が出るなんて……わたしの体はどこかおかしいのね」


 そう自嘲気味に言うハニーの頬をそっと撫でると、エルはハニーの額にそっと口付けした。労わるように優しく、願うように丁寧に、そんな神聖な儀式のような口付けだった。


「ハニー……もしかしたら僕は、貴女に巡り合う為に生れてきたのかもしれない」


 その柔らかな囁きは空虚なる神殿の何処かに消え失せた。




 孤立無援の悲劇の女王。

 目指す城は遥か遠く、道のりは険しい。

 その中にあって得た仮初の休息。 

 この闇の先に待ち受けているのは天使の囀りか、それとも悪魔の囁きか――。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ