廃墟の天使9
どれほどの時間が経っただろう。ハニーは暗闇の中でいつまでも祈っていた。
その闇は何処までも静寂で、彼女を脅かすものは何一つなかった。
「もう大丈夫だよ」
ハニーは柔らかい少年の声に弾かれたように顔を上げた。
少年が押し上げた床石の上から薄明るい光が落ちている。弱弱しい光、しかしこれほど神聖な光を彼女は感じたことがなかった。
二人が隠れていたのは一番入口近くにある石棺の側の床の下。
一部分だけ外すことが可能となっていた石畳の下は空洞となっており、二人が身を寄せ合うぐらいの空間になっていた。
そこから這い出し、初めて安堵のため息を吐いた。
ズリズリと側の石棺に身を預け、ハニーは床にへたれ込んだ。
サリエが側の石棺を開けようとした時、これほど心臓が止まりそうになったことはなかった。
結局彼は二人の居場所に気付くことなく、別の方を示唆した。
間違った推測は彼の驕りから生まれたのか。
だが喜ばしい誤算だ。絶体絶命の危機から脱したハニーは石棺に背を預け、新鮮な空気を肺いっぱいに満たした。
やっと一心地つけた。その安心感が全身を巡った瞬間、肩に激痛が走った。今の今まで忘れていたが、狼に噛みつかれた部分が鼓動と共に疼きだす。
肩口を押さえ、痛みを堪えるように身をかがめる。今まで忘れていたことが嘘のように疼痛は増すばかりだ。
(これも…生きている証ね)
強がってみるが、痛みは増すばかりで体に力が入らない。流れる脂汗に自分の限界を感じずにはいられなかった。
血はすでに止まっている。それだけがせめてもの救いではある。だが、血はなくても一度首元を貫かれた傷が癒えた訳ではない。どのタイミングでまた傷口が開くか分からないうえ、傷口が膿んでくる可能性もあるのだ。
高が傷であるが、いつハニーの足元をすくうか分からない。
「大丈夫?」
少年が震えるハニーの顔を心配げに覗き込んだ。呆然として焦点の定まらない金色の瞳の中で、柔らかな少年の金髪が滲んだ。
大丈夫……そう答えたいのに、震える唇は音を失っており、自分の意思すら相手に伝えられない。だが、少年はハニーの訴えかけるような視線に分かったとばかりに大きく頷いた。
そして自らの身を包んでいた上衣の袖を何の躊躇もなく裂きだした。
ハニーは痛みに目を細めながらも少年の行動に驚いて、慌ててその手を掴んだ。途端に痛みが波となって体の芯を揺らす。
「……あ……」
「大丈夫じゃないでしょ?傷の手当てをしないと………」
少年はまるでハニーの心と会話しているかのように、自然とそう告げた。大きな青い瞳は真剣にハニーを見つめている。少年は柔らかく真綿に包むようにハニーの頬に触れると、汗でへばり付いた髪を彼女の耳にかけてやった。
そしてまた自分の服の裾を切り裂くと、そっとハニーの肩口に当てた。
剥き出しになり空気に晒された白い肌はどす黒い赤に染まり、見るのも辛いほどにひどい。だが狼に噛まれた傷とは思えないほどハニーの傷は浅いように見えた。
すっと筋の通った鎖骨に沿うように、少年はその痛々しい部分に蓋をする。しかし微かな風にも身悶えるほどに疼く傷口に触れられ、ハニーは心臓が止まりそうなほどに身を縮めた。
「っ!」
「ごめん。痛かった?」
少年が慌ててハニーの顔を覗き込んだ。今にも泣き出しそうなほど青い瞳が揺れている。その瞳に映り込んだ自分を見つめ、ハニーは自分がどれだけ情けない顔をしているのかを自覚した。
先ほどまで痛みに回らなかった頭が何故だか急にクリアーに動き出したように思えた。
「う、ううん………だ、だいじょう……ぶ。………あ、ありがとう」
一生懸命に衣を巻き付けた少年は縛り上げたその部分を守るかのように手を当て、祈るように瞳を閉じた。
懸命にハニーを癒そうとする彼の横顔は何物にも代え難いほどに神聖である。なんて穏やかで、心救われる美しさなのだろうか。
ハニーは痛みに歪む顔を緩めた。少年の優しさに痛みが引いていくように感じる。気休めにそう感じるのだろうか。
いや、確かに熱を持った患部が疼くのをやめた。先ほどまでの倦怠感も薄れゆく。
心の持ちようとは凄まじい力を発揮するのだとハニーは身を持って感じた。あの時は緊迫した空気に狼に突き刺された傷すら頭の彼方に行っており、今は愛らしい少年の仕草に心癒されている。
「もういいわ。だいぶ楽」
少年のおかげなのか。
それとも自分が疲れすぎて感覚が狂っているのだろうか。どちらにしろ、いつまでもこの痛みを抱えて正気ではいられない。
(この子のおかげだと思うほうがいいわね。神がわたしに与えた最後で、最高の奇跡だわ)
ハニーは複雑な笑みを浮かべると彼の頭を撫でようと手を伸ばした。
しかしその手が血で汚れていることに気付き、躊躇するように手を止めた。
絹糸のような髪にどす黒い赤がこびり付き、ふっくらとした薔薇色の頬さえ汚されている。
本来ならば血で汚れることなどない、無垢な少年。彼の運命を狂わせたのは他でもない自分だ。
ハニーの所為で少年は悪魔になった。一度悪魔となった者の末路は決まっている。歩む道は血に染まり、蔑みの視線を容赦なく突き刺される。それはハニーが痛いほど感じた現実だ。
表面にある傷の更に深くで、ズキンっと重い痛みが疼く。悔しげに眉を寄せたハニーの心に刻まれる悔恨の念。
何も知らない純情な少年を巻き込んでしまった力なき自分が情けない。
「痛いの、なくならない?」
心配げに自分を覗き込む少年は、今にも泣きそうな顔している。
そう、まるでハニーの心に共鳴するように。その偽りない優しさに胸の奥が熱くなる。
だが彼をこれ以上に悪魔と呼ばせる訳にはいかない。これ以上必要なき血に無垢な微笑みを汚す訳にはいかない。
(……今のわたしはこの子に触れることすら許されない……)
血で染まった手が宙で固まった。
手を伸ばせばすぐの距離。だが今彼女と少年の間には渡ることすらできない大河が横切っている。
少しでも踏みこまれば、濁流に飲み込まれ、もっと少年を闇へと引きづり込む。
なのに……少年は簡単にその大河に橋をかけてこちら側に渡ってきた。宙で固まったハニーの手を優しく両手で包み込む。
「なっ!」
汚れることなど一切厭わず、祈るようにハニーの手を握りしめ、自分の顔を寄せた。
それはまるで神に祈っているかのような清浄な行為だった。
朽ちて、祈る者すら消えた神殿のその一部分だけに穏やかな空気が流れる。
不意に湧きあがった温かさが心を包む。それは乾いた大地に降り注いだ一滴の雫。
沁み込んだ途端、まるで泉のように湧き返す。後から後からとどまることを知らずに溢れかえる感情を抑える術など、ハニーはとっくに失っていた。
追われてばかりで荒んだ心を溶かすかのような温もりに、目頭が熱くなる。
城を離れ、このような最果ての森で、たった一人。
豪華な衣装も誰もが跪く権力もない。ハニーはただのハニーで、この荘厳な神殿から見ればあまりにもちっぽけで、無意味な存在。
(それでも側にいて、温もりをくれる人がいる)
「ありがとう。逃げずにいてくれて」
それがハニーにとって一番の奇跡だった。
目頭を拭い、少年に目を向ける。
泣いている姿を見られたことが恥ずかしく、気まずげに微笑みかけたが、少年はそんなこと気にしないとばかりに愛らしい笑みで答えてくれる。
冷たく眠りについた神殿に穏やかな風が流れていく。
その風に揺られた淡い赤い髪と眩い金髪はまるで夜明けの瞬間のように鮮やかだった。
溢れた感情をそのまま外に出しきって、少し落ち着いたハニーはふと思いついたように小首を傾げた。
この少年はどこから来たのだろう。このゴモリの森は深く、近くの村の者も不用意に近付きはしない。
何故、こんな森の奥深くに一人でいたのか。
(もしかして…迷子?)
ハニーは少年の身の上が不安になった。
もしかしなくてもこの少年の身を案じて、不安な時を過ごしている親がいるのではないか。
「あなた、名前は?親はどこ?家は?」
さきほどの穏やかさとは一転。
ハニーはずいっと少年に身を寄せると矢継ぎ早に質問を浴びせた。しかし少年は不思議そうに首を傾げるばかり。
ハニーの必死さとは対照的にやたらに落ち着いているのだ。
その表情は、はるか年上であるハニーの方が余裕のない子どもに思えてくるほどだ。
「名前?」
「そう!あなたの名前よ。いつもなんて呼ばれてるの?名前が分からないと色々と不便でしょう。まずは名前!次に住んでる村の名前。そして親の名前ね。いくら小さいといってもそれくらい分かるでしょう?」
息急ききった勢いのハニーに少年は困ったようにその円らな瞳をくるりと揺らした。
ハニーの勢いに驚き返答に困っているのだろうか。
だが答えに窮するようなことは何一つ問うてはいないハニーは少年の複雑な表情に戸惑うばかりだ。
「ねえ、わたしはあなたをなんて呼べばいいのよ?」
心底困りきったハニーは不満混じりに唇を突き出した。
ハニーの眇めるような視線に居心地悪げに視線を落としていた少年だが、意を決したのか、その青い瞳をハニーへと向けた。
深い青がハニーの鮮やかな金色と絡まる。
「……………エル……」
困ったように眉を寄せ、絞り出したように少年エルはそれだけをぽつりと呟いた。