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ある麗らかな旧市街地の今1

「……そして血に濡れた女王は永遠にこの地から消え失せたんだ」


 そこまで語りつくすと青年は一息吐いた。

 そして青年の言葉にじっと耳を澄ましていた少女の方へと顔を向ける。

 少女を見つめるその青眼は何故だか憧憬と哀愁に揺れていた。

 何かを耐えるように自分から視線を背けた青年に少女は心配げに円らな瞳を揺らした。

 小さな手をそっと青年の肩にかけると、その顔を覗き込む。

 

「どうしたの?おなか、いたい?」


「心配してくれるのかい?ありがとう。君は本当に優しい子なんだね……。それで、どうだった?私の話は君の心の慰めになったかな?」


「ん~なんだかむずかしかった」


「そうか。君にはまだ早かったかな?そうだね、君にはこの絵本の方が合っているかもしれないね」


 そう言うと青年は自分の着ている黒い巻頭衣の裾から一冊の絵本を取り出し、少女に渡した。

 そのぼろぼろの絵本を受け取りながら少女は丁寧に礼を述べた。

 少女はふと思い当ったように、青年の語る物語に一つの間違いを見つけたことを教えてやらんと自慢げに胸を逸らした。


「あのね、じょおうさまはきえてないよ。いまもね、このおしろにいるんだよ!」


 無邪気な瞳がきらきらと輝きながら、側に悠然と佇む城を見上げる。


「このおしろにはね、じょおうさまがいて、いつまでもまちのこをみまもってるんだよ!」


 無垢な瞳が仰ぎ見る壮麗な城が陽光を受け、燦々と輝く。

 溌剌と浮かべた笑顔は前歯がなく、どこか間抜けでそこがまた愛くるしい。

 少女の言葉に勢いづいたかのように、颯爽と風が城の頂き目指し駆けあがる。

 その屈託ない言葉に青年は言葉を失った。

 少女は何の躊躇もなく、全力で飛びあがらんばかりの勢いで訴えかけてくる。


「ちにぬれたじょおうさまはね~ほんとはとってもやさしいじょおうさまなのっ!まちのひとみんな、そういうよっ!」


「………そうか。なら今度、君の優しいお兄さんと一緒に離宮に行ってみるといい。それは本当に女王の幽霊なのか、その幽霊はどんな眼差しで君を見つめているのか。その目で確かめてごらん」


 その時丁度、遠くから少女を呼ぶ声がした。

 少女は弾かれたように顔を上げ、声がした方に向って大きく手を振って答える。


「にいちゃだっ!」


 甲高い声が新緑の上を軽やかに跳ねる。

 少女は緑の丘の向こうに見えた見慣れた兄の姿に大きく手を振って応える。

 そして青年のことなど忘れ去ってしまったように、穏やかな丘陵を勢いよく兄の方へと駆けだした。

 優しい兄はちゃんと自分を迎えに来てくれた。

 それが飛びあがらんばかりに嬉しくて、湧き上がる感情のまま、少女は全力で緑の世界を駆け降りる。

 その一生懸命に全身全てを使って生きている少女を青年は苦笑を浮かべながら見送った。


「転ばないように気をつけてお行き」


 玲朗な声が静かに湖面を滑る。

 あっという間に離宮を遠ざかる小さな背を青年はいつまでも見つめていた。

 そんな青年に共鳴するよう風が通った水面に幾つもの波紋が広がり、湖面に映し出された空を緩やかに雲が流れる。

 駈け出した少女は勢いのまま、自分を迎えにきた兄に抱きついた。


「えいっ!」


「っうわぁ!」


 少女の兄はあまりのスピードに全身で自分にぶつかってくる妹を上手に抱きとめられず、そのまま緑の絨毯の上に二人は倒れ込んだ。

 二人の体を柔らかな緑が包み、そのまま畝を転がっていく。

 ぐるぐると上下を入れ替わり、土の上を滑る。

 近くの観光客の一人がそんな危険な遊びに息を飲んだが、彼らにとっては日常茶飯事だ。


「こらっ!何やってんだよ!」


 そう言いながらも兄も白い歯を見せて笑う。

 それにつられて少女もきゃははっと興奮した面持ちで大きな口を開けて甲高い笑い声を発する。


「あはははっ!ソリみたい~!」


 子ども特有の甲高い嬌声が離宮に響いた。

 やっと動きを止めた体を起こすと、二人は案の定泥だらけになっていた。

 しかしそんなことを気にするカナンの子ではない。

 髪に幾つも葉っぱを絡めたまま、自分達の家のある方へと笑いながら走り出す。

 飛びあがり、笑い合い、時に離宮を振り向きながら、子どもたちは全力で今という時を駆けていく。

 その愛らしい姿に側にいた観光客達が目を細めて、彼らを見送る。

 麗らかな風が吹き抜けた。

 穏やかな時はまるで牛のように歩みが遅い。



「……ゼル離宮一の広間で女王はその狂気のまま、次々と集まった者に襲いかかっていきました。ですが、最期は哀れ―――…実の弟ウヴァル・カナンに捕らえられ、絶望の内に首を刎ねられたと謂います。その時に彼女を包んでいた瘴気が全て広間の天井を突いて噴き出したため、今でもその広間には痛々しい穴が開いたままだとか……。

そんな壮絶な出来事を越えエクロ=カナンは再度歩み出します。

レモリー・カナンの次に王に立ったのは若干十歳のキアス・カナン―――。

姉を討ったウヴァル・カナンはその後姉を追うように病死したため、三姉弟のうち最後まで生き残った彼がエクロ=カナンを率いることになったのです。キアス・カナンは列強国の王が皆一目置くほどの賢王として成長し、この北の大地に泰然と君臨します。

しかし歴史は無情です。エクロ=カナンはこの後衰退の一途を辿り、遂にはウォルセレンの属国となり、現在、皆様がご存じのようにウォルセレンの一都市となりました」


 緩やかな風に乗って響くガイドの声を遠くに聞きながら、少女はさっき貰った絵本を嬉しそうに兄へと向けた。


「さっきね~えほんをもらったの!」


「え~誰にだよっ!」


 眼前に向けられた絵本とは言い難い古びた書物を前に兄は驚いたように目を見開いた。

 少女はそんな兄の言葉にきょとんとし、だがすぐに円らな瞳を屈託なく綻ばせた。

 どこか自慢げに胸を逸らし、自信満々に答える。


「へんなおじさんっ!」


 そんな少女の頭を兄はぽかりと軽く叩き、呆れたように目を怒らせた。

 無邪気ゆえに警戒心の欠片もない妹が心配で仕方ないといった面持ちで拳一つ小さな顔を見下ろす。


「変な奴にはついていくなっていつも言ってるだろ!」


「ちがうもん。ついていったんじゃないもん。むこうからきたのっ!」


「尚悪いっ!」


 確かに常日頃から母にも父にも知らない人についていくなと言い聞かせられているが、自分にもいい人か悪い人かは判断できる。

 少女は不服そうに兄を見上げる。

 少女はあの青年が自分にとって悪い人であるとは到底思えなかった。

 兄は変な奴だというが、少女に向けられた青年の柔らかな眼差しを知っていれば、そんな言葉など浮かんではこないだろう。

 だが幼い少女は自分の抱える感情を上手に伝える言葉を持たない。

 う~っと興奮した猫のような唸り声を上げて、心配性の兄に憮然と抗議する。 

 対する兄は妹の言いたいことが分からずに首を傾げるばかりだ。

 そこで少女はいいことを思いついたとばかりに手を打って、その場で飛び跳ね出した。

 感情のままに兄の服を引っ張り、ゼル離宮の方を仰ぎ見る。


「あのね、あのね、あっち!あっちみてっ!」


 百聞は一見にしかずと言わんばかりに、自分が先ほどまでいた離宮の側の湖を指さす。


「ほらっ!あそこだよ!」


 しかし少女が指さした先にあるのは、輝かしい緑に深い影を落とす雄大な石造りの城。 

 その側でキラキラと光りが跳ねる湖がどこまでも澄んだこの景色にアクセントを加えている。

 その城目指し観光客の一行がゆっくりと進んでいる。

 それ以外何もなかった。


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