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終章~そして、歴史は語り継がれる9

 骨の髄まで蕩けて痺れる、低く甘い声にハニエルは顔を燃え上がらせた。

 それはハニエルの許容範囲を超えた出来事だった。

 ズンッズンッと血潮が体中を暴れ出し、ハニエルの思考を乱していく。

 今ハニエルに出来るのは泣きだしそうな金色の瞳を険しくさせ、目の前の不届き者を睨みつけることだけだ。

 これ以上彼に飲みこされれば、自分はどんな失態を晒すか分かったものではない。


「バカ!」


 叫ぶと同時に手を払いのけると、今度は簡単に離れた。

 そのまま手の届かない距離まで全力で退避すると、ハニエルはまた臨戦態勢を取った。

 次こそは一発どついてやるとお姫様らしくない決意をし、警戒する。

 そんなハニエルに反して、サリエは悠然としている。

 そっと顔を上げた彼は夜の闇のような艶を帯びた漆黒の隻眼を細めて柔らかく微笑んで見せた。


「残念」


 常の冷酷さが影を潜めた、穏やかな顔は本当に残念そうに見え、ハニーの胸を沸騰させるに充分すぎるほどに美しかった。

 ドクンドクンと弾む鼓動を気付かれないようにハニエルはじとりとサリエを恨みがましく睨みつける。

 サリエを警戒しつつ、ハニエルは口を寄せられた手の甲を撫でた。

 まだその甲には彼の唇の余韻があるようで、心が落ち着かない。

 そんな自分を気取られないように、ハニエルは愛らしい顔をぶすりと膨らました。


「あなたは司教の癖に、いつもこうやって女性を口説いてるのね」


「ずいぶんな言い方だな。俺は自分の認めた女しか口説かん」


 とんでもないとばかりに嘯く男は常と変わらず、余裕綽々だ。

 傲慢な様子で欄干に両肘をかける。

 いつものような皮肉な笑みを浮かべた顔には先ほどの艶やかさはない。

 だからだろう。

 ハニエルはホッと息をついて、いつものようにサリエに食ってかかった。


「嘘吐き!わたしをウォルセレンの王女だと知ってたくせに、分かっててずっと追い回してた人の言葉なんて信じられない」


 変わらずキャンキャンと吠えだしたハニエルに、普段のサリエならばフンッと鼻で笑って何か一言でハニエルを撃沈させるはずだ。

 だが今日のサリエはハニエルと会話が嫌ではないのか、フッと不敵な笑みを浮かべたまま、ハニエルの言葉に応える。


「ククっ。手厳しいな」


「事実でしょ!なんだって、分かっていたならもっと早くに教えてくれなかったのよ!」


「敵を騙すにはまず味方からというからな。そのセオリーに則ったまでだ」


 フイッとサリエがそっぽを向く。

 それは痛いところを突っ込まれたと苦々しげに顔を歪めているように見えた。

 まるで言い訳をしているかのように、サリエが饒舌に語る。

 ただし視線は遥かゴモリの森だ。


「お前が女王として逃げている間に大司教が色々とぼろを出すと読んでいた。なんだって奴は女王に生きていてもらっては自分の身が危ないんだ。奴はお前を聖域へと運んだが、途中で暗殺するつもりだったんだろう。お前を女王として殺して、全てを終わらせたかったはずだ。だからこそあえて女王を逃がしたまま、奴の反応を窺っていたんだ。奴の監視はラフィの仕事だった。途中、森でお前をラフィに任せた時は代わりに俺が奴の動向に目を光らせていた。まぁつまりだな。お前が女王として森を逃げている間、ハールートは何もできないし、それに建前上ウォルセレン王女として看病を受けていた女王陛下の命にも危険は及ばないだろうと読んでいたんだ」


 理路整然と語られる真実にハニエルも、うむむと唸るしかない。

 早口に捲し立てられたそれが一番の得策だったように思えてくる。

 それでも一つ納得がいかず、ジトリとした視線でサリエを見つめる。


「エ、エルのことは確かにそうね。ウォルセレン王女だから殺さないように手厚く看護する流れにはなるだろうし……で、でもね、なんでその作戦をわたしに教えてくれなかったの?わたしだってエルがどうなっているのかとか、現状がどうなっているのか知りたかったし、そ、それに……」


 言葉を切ると、サリエの瞳がその続きが気になるのか、森からハニエルの方に向けられた。

 変わらず深い色合いを湛える黒曜石は複雑に揺れている。

 その瞳を真剣に見つめ、ハニエルは訴えかけた。

 サリエにとっては任務の一つだったかもしれないが、ハニエルにとってあの一連の出来事は死出の旅にも匹敵する受難の道だった。

 死を覚悟して、全てを敵だと跳ねのけ、ここまで来たのだ。

 言っている間に感情が高ぶり、目頭が熱くなる。


「あなたには分からないでしょう?何も知らずにいることがどれだけ不安になるのか。ずっとずっと不安だった。わたし、間違ったことしてないかって……それなのに、わたしのこと、からかってばかりで、あなたって本当に最低!」


「その眼!」


 憤るハニエルの言葉を遮るように、サリエがハニエルに顔を寄せた。

 思わずハニエルは言葉を止め、美しく花咲いた氷の華に釘付けになる。

 ハニエルを飲みこまんとする黒曜石の瞳がじっとハニエルの金色の瞳を見返した。

 何物も映らない漆黒の黒の中に、今日は小さな乙女がいた。

 瞳の中で不思議そうにハニエルを見返している。

 ハニエルの瞳を覗き込みながら、サリエは熱の籠った甘い声で囁く。

 その声は雄大な風に乗って、遥か彼方へ流れていく。


「その眼を見た時から、お前ならやり遂げると思っていた。狼に噛まれ血だらけになっても、異端審問官である俺を見据えても、けして諦めようとしない。気高く美しい瞳だ。だからその眼に全てを賭けようと思ったんだ」


 ハニーの頬が一気に真っ赤になった。

 まさかサリエの口からこんな言葉を聞く日が来るなど思ってもみず、ハニエルはポカンとサリエを見つめたまま、言葉を失う。

 目の前のサリエは変わらずの無表情で、じっとハニエルを見下している。

 ただ、少しだけ傲慢さが影を潜め、今日の麗らかな日差しのような温かさが滲んでいる。


(そんな風に思ってくれていたなんて……いやいや、でもきっとこいつのことだもの。この言葉もさっきまでと同じ、口先だけのパフォーマンスかも………)


 それでも前者を望んでしまう自分は恐ろしく馬鹿なのかもしれない。

 ハニエルは自分にそう言い聞かせながらも、高鳴る鼓動に飲まれていった。

 じっとサリエの黒曜石の瞳を見つめる。

 不意に、美しい顔が歪み、底意地の悪い嫌味な顔がのぞいた。


「……なんて言えば満足か?」


 えっ?とハニエルは息を飲む。

 呆然としたハニエルに背を向け、話は終わったとばかりにサリエはバルコニーから出ていこうとした。


「なっ!ど、どういうこと?」


 慌ててその袖を握りしめ、ハニエルは叫んだ。


「そのままの意味だ。理解できないなら、むりくり理解しろ」


 行動を押さえられ、すこぶる不機嫌そうな顔でサリエがハニエルを見下す。

 もうこれ以上何も話したくないとばかりに、眉が歪んでいる。

 そしてフイッと顔を背けて、またその場を離れようとした。


「ちょっと、話は終わってないわよ!待ちなさい!このインケン、サイテイ男!ちょっと顔がいいからって、冗談もたいがいにしなさい!」


 怒りの声をあげてハニエルはその背を追った。

 ぎゃあぎゃあと騒ぐハニエルにサリエは心底迷惑そうな顔を向けながら、それでも無視することなく答える。

 その騒々しい声は次第に室内へと消え、その後には別の声も混じり、大層賑やかになった。



 彼らが去ったバルコニーには麗らかな日差しが降り注ぐ。

 そう心惹きつけらるほど穏やかな光が……。


 それはどれだけ時が経っても変わらない真実であった。



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