終章~そして、歴史は語り継がれる7
今回のことでベルビュートと関わったのは、サリエ、ラフィ、キャメル、カンザス、アクラス、それにシーリエント聖十字騎士団の面々くらいだ。
カンザスとアクラスはもうすでにこの国を離れており、彼らがベルビュートについてどう思っているのかも分からない。
ラフィは、キャメルと共にベルビュートをウォルセレンに送り出したと思っており、キャメルは途中で見失ってしまって申し訳ないとハニエルに泣きそうな顔で謝罪してくれた。
皆、ベルビュートはただの子どもであると思っているだろう。
誰もベルビュートが何者で、何処に行ったのか知らないはずなのだ。
ハニエル自身、誰にも彼のことは話していない。
なのに、この男は何故、まるでベルビュートの正体を知っているかのように当たり前の顔をしてハニエルを慰めるのだろう。
「どうして、あの子のこと……」
サリエは最後まで意識があった様子だった。
もしかしたら、あの時、ベルビュートの腕に抱かれたハニエルとベルビュートの会話を聞いていたのかもしれない。
でもあの成長した彼をすぐさま、少年の姿と結びつけることができるのは、きっとこの世でハニエルただ一人のはずだ。
今回の惨劇の幕締めについて、ハニエルはどう説明したらいいのか分からず、最後の最後で神の奇跡が起きたのだとしか話さなかった。
あの広間で起きた悲劇の終焉の真実を知っているのは、ハニエルとウヴァルだけだ。
その片方は未だ眠りについている今、ハニエルの語る言葉だけが世界の真実だ。
こうやって人の思惑に歪められ、真実は失われていくのかもしれない。
だが、それでいい時もあるのだ。ハニエルはそう自分に言い聞かせた。
きっと彼だって目覚めれば本当のことを話さないはずだ。
彼に付き従っていたのはかつてこの国で月の女神と呼ばれた人で、彼女を説得したのは、この国の偉大なる館の神だったなんて………そして、その両名とも悪に飲まれ悪魔と呼ばれる存在になっていた。
これは些細な偶然によって悪魔と蔑まれた者が、その胸に残る僅かな優しさを全てつぎ込んでくれたお陰なのだ。
そんな悲しいだけの真実は、誰も聞きたくない。
いや、違う。どんな大義名分を用意しても、本当は自分自身が一番認めたくなかった。
だから、レモリーにあの広間で自分が目覚めるまでに起きたことを問われた時、ハニエルは咄嗟に誤魔化してしまった。
「悪魔に殺されそうと思った時、突如広間の天井が裂け、そこから崇高なる光を背負った館っぽい貴人が現れ、悪魔を諭して、どこかに消えたような気がする」
自分で聞いても、何とも下手くそな言い訳に思えた。
館っぽい貴人って何なんだろう。ボキャブラリーのない自分に自己嫌悪しかない。
取りあえず、意識が朦朧としていたからあまり覚えていないのだと言うと、レモリーはその麗しい顔に憂いに歪ませて、「辛いことを聞いてごめんなさい」とハニエルに謝り、それ以後何も聞いてはこなかった。
だからそれが今回の事件の真相として、一部の者だけが理解している。
そのはずだった。
なのに、今目の前にいる男はハニエルがひた隠しにしている真実がまるで見えているかのように、じっと蠱惑的な瞳でハニエルを見下ろしてくる。
一気に涙が引っ込み、ハニエルは怯えるように一歩後ろに引き下がった。
ハニエルの頭に置かれたサリエの手がずりっとずれるが、その手はまだ未練があるとばかりに緩やかに手に残った淡い赤の髪を掴んだ。
呆然と顔を強張らせるハニエルに、黒曜石の瞳がふっと和む。
その色合いがあまりにも複雑で、彼の真意がハニエルには読み取れない。
「あいつ……あの広間でお前を抱き上げていた金髪のやつは、あの神殿でお前と一緒にいた少年だろ?そんでもって、奴はかつてこの国で崇められていた館の神だった」
ハニエル自身信じられない真実が何故、この不遜な男に全て現実として理解されているのだろうか。
さも側で見ていたような口ぶりにハニエルは言葉を失った。
愛らしい唇が突きつけられた真実を前に戦慄く。
「何故………」
彼はあの時、ハニエルとベルビュートの会話を聞いていたのだろうか。
だがあの会話は少年であった彼と青年になった彼が同一人物であることが分かっている上で成り立つものだったはずだ。
広間の端に吹き飛ばされ、しかも息も絶え絶えで生死の境を彷徨っていた彼が、あのハニエルでさえ全てを理解するのに時間がかかったことを全てを理解しているなど俄かに信じがたい。
だがその疑問をぶつけても、きっとサリエは不遜な顔で「頭の作りが違うからだ」とトンでもない嫌味しか言わないだろう。
そんなことは嫌というほど分かっているつもりなのに、今のハニエルにはそれを問いたださずにはいられなかった。
こぼれんばかりに目を見開く。
指先が知らずの内に震えた。
何故と聞きながらも彼に真実を言い当てられるのが怖くて、及び腰になってしまう。
その腰をがしっと掴まれ、鼻先に顔を突きつけられた。
ハニエルの心を鷲掴みにした漆黒の瞳が鋭利な輝きを放つ。
もう逃げられない――――ハニエルはそう確信した。
「あの神殿でお前と一緒にいたガキ、あいつには影がなかった。だから俺はあの時、悪魔かと問うた。あの神殿で何かあってお前が悪魔を呼び出したとも考えられるからな。だが、お前は悪魔を利用せず、あまつさえ可哀想な少年として騎士団への保護を望んでいた。それがまず一つの疑問だ」
まるで抱き締めあっているかのような態勢だが、互いに浮かべている表情はけして妙齢の男女が抱きしめ合って浮かべる表情ではない。
まるで見つめ合いながら鬩ぎ合っているかのような、相反する感情を抱えていた。
「その後に起きた神殿の崩壊――気付いていたか?瓦礫はお前たちだけを避けて落ちていた」
「そんな、こと、ありえない………」
懸命にサリエの言葉を打ち消そうとするが、非情な男はハニエルを逃がさない。
「お前を広間の端に倒したのは俺だ。お前に襲い掛かってくる騎士をそれと分からないように始末していた。だから、間違いはない。お前と奴が逃げる場所だけ道のように守られていた。誰も近づけないように………」
ハニエルの頭が混乱を重ねていく。
それはハニエルの知らない真実だった。
そうやってベルビュートはハニエルに気付かれないように、ハニエルを守っていたのだろうか。
この時の彼はまだ、自分が悪魔ベルビュートであると気付いていない。
きっと無我夢中でハニエルを助けようとしてくれていたのだろう。
「次に崖の側でお前が勝手に落ちた時、あいつはまるで光が降り注ぐがごとく現れた。この俺がその存在感を感知しないほどの隙を突いて、お前と共に崖に落ちていった。因みにあの濁流に飲まれても全然堪えずに元気に動き回れたのは一重にあいつのお陰だろうな。ラフィにお前の回収を命じた時、最悪お前の意識は昏睡状態であることも考慮していた。だがラフィが見つけたお前は、今まで濁流に飲まれていたと思えないほど盛大に叫んでいたらしいじゃないか」
サリエはフンッと鼻を鳴らし、小馬鹿にしたように隻眼を細めた。
あれはラフィが開口一番に訳の分からないことを言い出したから、思わず叫んでしまったのが真実で、それまでのハニエルは動くことも難しいほど衰弱していたのだ。
誰も信じてはくれないが………。
この点に関してはベルビュートのお陰であったのか分からないが、彼のお陰で動き出そうと思ったことに間違いはない。
「最後にラフィの話を合わせれば、あの少年がただの子どもでないことは誰にでも分かる。例えば城の地下で急に鉄格子が粉々に砕けたことや、地下牢を出てすぐに侍女と一緒にウォルセレンに向かったはずなのに、その後すぐに姿を消していただの………例を挙げればきりがない。ここから導き出せる答えは………」
「答えは………」
金色の瞳が縋るように黒曜石に惹きつけられる。
答えを知るのが怖い。だが、その答えを聞かずにはいられない。
そんな瞳に応えるように、形の良い薄い唇が抑揚なく真実を紡いだ。
「あいつは人と異なる力の持ち主で、お前を主人と認めていた。だが、お前はそれが分かっていなかった。分かっていれば、地下牢であいつを逃がそうとはしないはずだ。じゃああいつの正体はなんだ?答えはお前の持っているその首飾り。それはかつてのエクロ=カナンの神殿に用いられていた紋章の一つだ。お前が逃げ込んだ神殿にも同じような紋章がいくつもあった……まあ、この国のかつての神ってのはカマ掛けだ。首飾りを持っているから即奴が崇高なる館の神と呼ばれていた者だとは断定できないからな」
氷の華のような美貌が嫌味なくらい流麗にせせら嗤う。
そしてそっと、ハニエルの腰から手を離した。
髪を掴んでいた手も名残惜しげに離れていき、赤い髪が空色になびく。