終章~そして、歴史は語り継がれる6
せっかくの殊勝な心がけも癇に障る無礼な言葉を前にすると一瞬のうちに飛んでしまった。
これでもかと目に力を入れて睨みつけるが、相手は百戦錬磨の死の天使だ。
ハニエルの一睨みなどどこ吹く風と更に一歩近付く。
そしてハンッと首を竦めて、顔を歪める。
「レディーと言える代物に見えないがな」
「ちょっと、大人しく聞いていればいい気になって!死の天使が何よ!どこからでもかかってきなさい!」
ハニエルは臨戦態勢だ。
こんな闘志は、あの森の中で城を目指している時も感じなかった。
グラグラと腹の底から湧きあがる怒気に身を任せ、サリエを迎え撃つ。
だが相手は一人熱くなるハニエルを残し、傍観者気取りで困ったように片眉を寄せ、面倒臭そうにバルコニーの欄干に背を預けた。
そのままハニエルを上から見下す。
「どこが大人しくだ………。フンッ、いいか?いい女ってのはタイミングを見誤らないもんだぜ?」
「はぁっ?」
一瞬、何を言われているのかも分からなかった。
燃えさかった闘志が行き場を失った。
ポカンと見上げる先にあるのは、今日も完璧な美貌を湛えた麗しい横顔である。
こ憎たらしいことに、奴はハニエルを無視して城下に広がる爽涼な緑に目を向けている。
出鼻を挫かれ、ただ睨むことしかできないハニエルの視線に気付きつつも、あえて振り向きもしないところが、なんとも厭味ったらしい。
その深い闇のような瞳が充分の間をとって、ちらりとこちらを見つめる。
困ったように、だが怒りを引っ込めるタイミングを逃して強張ったままのハニエルに気付くと、形の良い唇をふっと緩めた。
氷の美貌が眩い光を受けて、燦然とそこにある。黒曜石の隻眼が深く輝いた。
「今が、ここぞというタイミングだろ?」
「何、言ってるの………」
ハニエルの顔から余裕がなくなっていく。
今自分がどんな顔をしているかも分からない。
冷やかな風に晒され、手指が痺れるように冷えていく。
だが、胸の奥、高鳴る鼓動は耐えられないほど熱い。
サリエの言葉の意味を掴みかねているハニエルの頬にそっと手を伸ばすと、サリエは乾き切っていない涙の跡をなぞった。
「泣きたい時は泣け」
ハニエルはグッと胸の奥を掴まれた気がした。
突き放したような言葉だ。声もつっけんどんで、一つも労りが感じられない。
(なのに………)
せっかく治まっていた激情が金色の瞳目がけて突き上がる。
一度引っ込んだはずの涙が不意に溢れだし、止まるところを知らずに流れでる。
柔らかな頬に涙の川ができていく。眩い陽の光に川の水が清らかに照り返る。
「なんでよ………」
涙交じりの声で叫んだ。
「ああん?我慢などお前には合わないからな。姦しいぐらいが丁度いい」
何故こんなにもつっけんどんで非道な言葉が、何故傲慢で不届き者の声が、何故こんなにも優しいと思えてしまうのだろう。
感情に振り回されながらも必死に冷静になろうとする自分がどうでもいいことに拘る。
でもそんなどうでもいいことに頭を集中させないと、とてもではないが立っていられなかった。
そんなハニエルの心情などお見通しとばかりに、サリエは慈しむようにハニエルの髪を撫でた。
さらりと風に溶けそうな光の筋のような赤い髪が風に流されていく。
普段のハニエルならサリエに対してだけは「触らないでよっ」と剥きになって拒絶しただろうし、サリエ自身も「何故この俺がお前に触れなければならない。つけあがるな」など言って、頼まれてもそんなことはしないだろう。
なのに、この姑息な男はここぞとばかりにハニエルの弱さにつけ込んで、誤解させるような優しさを見せつけてくる。
「……エル………ごめんねぇぇ………わたし……何も気付いてあげられなかった………あなたが苦しんでいる時、側にいたはずなのに………」
天を仰ぎ、わんわんと泣き声を上げる。
もうこうなると自分で自分を止められない。
世界がハニエルに共鳴するように震えた。
空気も光も、眼下に広がる緑の草原も全て、今はハニエルの心のみに反応し、一緒に泣いているようだ。
ヒックヒックとしゃくりあげるハニエルの顔はぐしゃぐしゃで、もう側にいるサリエに構ってなどいられない。
サリエが小さな子をあやす様に、感情のままに泣き続けるハニエルの髪をポンポンと叩いた。
自分の鼓動しか聞こえないハニエルの耳朶に、低く澄んだ声が響く。
「お前がお前らしくある。それ以上、あいつは望んでないはずだ。お前はそのままでいいんだ」
するんと心に響く声に熱せられた胸の内が僅かに穏やかさを取り戻した。
洪水のように流れていた涙が不意に途切れ、込み上げる嗚咽を誤魔化すように大きく頷く。
さらりと放たれた言葉は、すごくしっくりとハニエルの心に届いた。
何故だか、その言葉の通りだと思った。
何か確証を得ることがあった訳でも言葉があった訳でもない。
だが、ベルビュートはそういう子だったとハニエルは知っていた。
誰もが当たり前と思う日常的な触れ合いをまるで奇跡のように受け入れ、大げさなほどの誓いでその愛を返してくれるのだ。
ハニエルは頬を流れる温かな雫を拭う。
「うん……そう思ってくれるかな………」
「さぁ?俺は知らん。まぁ、お前の身に危険が迫った時に証明されるんじゃないか?」
サリエは突き放されたような声でハニエルの理解できないことを言った。
水の膜を張った金色の瞳で縋るように、すぐ側の黒い影を見上げるハニエルにはそっぽを向いた男の表情は読めなかった。
だが、言葉とは裏腹に未だに頭に乗せられたサリエの手が温かく、それだけで凍りつく寂しさに染まる心が溶けていく気にさせられた。
「それってどういう意味?」
素直に疑問を口にして、真っ直ぐにサリエを見つめる。
その時、ハニエルはそんな疑問よりも大きな疑問に気が付いた。
何と言うか、口に出した疑問の前提となる根幹部分がまず謎なのだ。
何故、ベルビュートのことについて、サリエがこうも分かったような口を聞くのだろう。