廃墟の天使6
突如上がった怒号がハニーの言葉を飲み込んだ。
うねりを上げ、その声は衝撃となって広間の床を震わせた。
単純なカイリは少年を悪魔だと認識したらしい。
滑らかな黒髪の向こうでカイリが片手に握られた大剣を振りかざし、後ろに控える騎士団に号令をかけている。光の聖堂を不躾な影が覆っていく。
サリエがちっと舌打ちをする音がやけに遠くに聞こえた。
賽は投げられた。
鋭く空を切る音、振り下ろされた大剣。
それをかわ切りに騎士達の怒号がこだました。
勇猛果敢な騎士の雄叫びは吹き抜けの天井を突き抜け、天を目指し駆ける。
千年以上も眠りについていた空虚な神殿を裂かんばかりの地鳴りが響く。
(……む、迎え撃つしかないのかしら…。今更逃げ出しても、この距離ではすぐに掴まってしまう……)
狼すら撃退できないハニーはただ前に迫りくる騎士団を睨むしかできない。
遠く振り上げられた剣に自分の運命を悟った。
押し寄せる怒号と土煙り、その向こうから迫り来るのは同じ人の形をした絶望だ。
(もうわたしには何もない………。でも、わたしにはまだやらなければならないことが……)
祈るように天を仰ぎ見た。
降り注ぐ日の光は暗い神殿の中にあって、外と変わらず清浄だ。
怒号が押し寄せる中、尽きる運命の前にハニーは成すすべもなく立ち尽くす。
「エル……あなたの願いを叶えたいのに……」
強く煌めく金色の瞳に感情が溢れ、薄汚れた頬に一縷の雫が落ちた。
「エル、ごめんね……わたしはなんて無力なんだろう。あなたはどんな時でもわたしに優しい手を差し伸べてくれたのに……わたしもあなたを助けたいのに……」
もう一つ、更に一つ……もう雫とは呼べないほどにハニーの中から溢れる感情の欠片が頬を伝った。
それは彼女に残っていた最後の希望だったのかもしれない。
透き通ったその雫はそのまま頬を離れ、地に落ちていく。
音もなく、小さな雫が凍てついた神殿の床を叩いて、弾けた。
その雫は騎士達に踏みにじられ、跡形もなく消え去る。
(ああ……もう……終わりだ……)
ハニーを討たんと押し寄せてくる騎士がその手に持つ剣を振り下ろそうとしている。
涙で滲んだ瞳はもう何も真実を映さない。
粉塵が舞い、紅蓮の炎を纏った突風がすぐそこまで差し迫る。
大柄な騎士が手にした剣を天高く振り上げた。鋭く尖ったその先がきらりと輝く。
呆然と見つめて剣を迎えようとするハニーの手が掴まれ、思わぬ力で引っ張られた。
衝撃のまま、広間の端までハニーの華奢な体が吹き飛んでいく。
驚きに見開いた瞳が見つめる先、さっきまでハニーがいた場所を騎士の剣が弧を描いた。
悲鳴さえも出てこない。
ただ流れる情景を受け入れるだけ。
勢いのまま、ハニーは背中から広間の壁に激しくぶつかった。後は慣性のままに襤褸切れのような体がぐちゃっと床に落ちる。
立ち上がることすらできないハニーを狙って更に次の騎士が剣を振り上げ、迫りくる。
血に濡れた女王を追い詰める彼らの顔こそ悪魔のように歪んでいた。
「………エル……あなたの側に………」
死を覚悟した。
もう立ち上がる気力さえ湧いてこない。
ただ最後の抵抗とハニーは真っ直ぐにその剣を睨みつける。
それで何かが変わるとは思わない。だが何かが変わればいいと願わずにはいられなかった。
光の閃光が迫る騎士の心を射抜く。その瞳に騎士の手に戸惑いが生じ、息を飲むように手元が止まった。
剣を掲げたままたじろぎ、たたらを踏む。
それは一瞬―――――しかし、何かが起こるのには充分の時間。
「――――――貴女が全てだから………貴女が望むままに……」
広間を埋め尽くす怒号の中、その声ははっきりとハニーの耳に届いた。
凛としたその声は、まるで闇の中を照らす一条の光のようだった。
広間の時がピタリと止まった。
その場の者の動きも、音も、土煙りも、光でさえも………。
何ものも息をすることさえできない。
降り注ぐ光は相変わらず穏やかだ。深い眠りについていた石台は身じろぎ一つせずに事態を静観している。
だが、何かが変わった。それを肌で感じても、実体として掴めない。超然とした時の流れに皆、ただ身を任せるしかない。
そんな中、図らずしも騎士団を迎え討つ形で天を仰いだハニーだけは知っていた。静謐としたこの広間に迫りくる戦慄に。
呆然と空を見上げ、絶望に喉を引き攣らせた。
「……ぁああ……空が落ちてくるっ!」