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夜明けの星5

 ハニエルの心臓が、壊れそうなほどに弾けた。

 それだけは想像してもけしてありえないと懸命に打ち消していた言葉だった。

 強張ったまま自分を見返すハニエルにベルビュートは困ったような、それでいて嬉しくて仕方ないと言ったような複雑な笑みを浮かべる。

 思わず緩んだ頬をなんとか引き締め、彼は先を続ける。


「君に悪魔は必要ない。でも一つ我がままを言うなら……この首飾りを持っていてほしい。そして時々少年の姿の僕を思い出してほしい」


 パチンと指を鳴らすと彼の手には、あの月型の首飾りがあった。

 切れた革の紐を器用に結びつけると、そっとハニエルの目の前まで持ち上げる。

 そしてベルビュートは呆然と自分を見つめ返し、身じろぎ一つしないハニエルの首にそれを恭しく掲げる。

 ハニエルはどうしていいのか分からずにただ涙を浮かべてされるがままだった。


「……い、いかないで……」


 ベルビュートはあの少年の時と変わらない、無垢な表情のまま屈託なく微笑む。

 だがその表情が不意に余裕なく歪んだ。

 そのまま我慢できないとばかりにハニエルをきつく抱きよせ、ハニエルの赤い髪がかかる頬に口を寄せた。

 それだけじゃ飽き足らず、その暁のような眩い髪にも、生まれたての太陽のように煌めく瞳にも、細く華奢な首筋にも、どんなことがあっても動きを止めない屈強な心臓にも肌越しに口付けをする。

 無我夢中で口付けする彼は、まるで泣き叫んでいるように見えて、ハニエルはされるがまま、一緒になって涙を流した。


「い……かないでよ……エル……ずっと一緒って約束したじゃない…………」


 愛らしい唇が戦慄く。

 止めどなく流れる涙がベルビュートの美しい金髪を濡らしていく。

 ハニエルの紡ぐ言葉一つも愛しいとばかりにベルビュートは一際きつくハニエルを抱きしめた。

 ハニエルの心臓が一層激しく燃え上がる。

 その熱がそのままベルビュートに移ったかのように、冷たい彼の頬がほんのりと色づいた。


「どうか君に幸がありますように。僕の心にまだ神の欠片が少しでも残っているなら、その全てを君に―――――……………永遠に愛している、ハニー」


 誰よりも美しく、その悪魔はハニエルに微笑みかけ、そのまま闇に薄らいでいく。

 ハニエルは弾かれたように、その姿をとどめようと抱きつくが、それは無駄でしかなかった。

 彼女の腕の中で、煙のように消え去った愛しい天使はもう姿形もない。


「………ぁ………ぁあ…………なんで…………」


 痛々しい鳴き声が冴え冴えとした穏やかな夜に包まれた広間に響く。

 しかし答える者は誰もいない。

 それでもまるでまだ空気の中に彼がいるのだとばかりにハニエルの手はギュッと何もない空間を抱きしめた。

 何もない。

 ただ己の体を抱きしめているだけの行為にハニエルは全てを悟る。

 だが認めたくなかった。

 その場にガクリと膝を折る。

 自分の体を抱きしめたまま、ハニエルは縋るように頭上を見上げた。 

 もう涙で前が見えなかった。



 濡れた金色の瞳に映るはぼやけた濃紺の空のみ。

 あの優しい青はどこにもない。

 そんなハニエルを置いて、広間は変化していく。

 神聖な空気がそっと広がり、緩やかに明けゆく夜の帳がその色を淡い紫紺へと変えていく。

 空には人々を導く希望の星が輝いている。この広間であった惨劇の終わりを告げる静かな光だった。

 一際輝く星が薄紫の空に浮かんでいる。

 その星を見上げ、ハニエルは欠けた何かを埋めるように首にかかった首飾りを握り締めた。

 どうしてか涙が止まらない。

 こんなにも胸を突く空しさが存在するのだろうか。

 何かを失ったまま見上げる空は常と変わらずに美しい。

 幾重にも色を重ね、淡いグラデーションを描く。

 どこが色の境なのかも分からない。

 薄ぼんやりと白む空がそこにある。

 今は夜なのか、それとも朝なのか。曖昧としたこの瞬間だけはきっと誰も自分が何者なのか分からない。

 食い入るように見つめる空は、ウォルセレン王城の端にある祈りの塔から見上げる広大な空と何一つ変わらなかった。

 残酷なまでに美しく、そしてハニエルを突き動かす。

 その背に懐かしき声がかかる。

 ハニエルは弾かれたように振り返った。


「……ハニー………」


「エル?」


 ハニエルの視線の先で、白銀の美しき髪が揺れている。

 そこには、ぼんやりと瓦礫の中心に立ち竦む月の女王がいた。

 何が起きたのか、皆目見当もつかないとばかりに呆然としている青銀の瞳が真っ直ぐにハニエルを見つめていた。

 ハニエルの胸が熱くなる。


(本当になんて残酷で、ずるいのかしら……)


 頬から清浄な涙が零れていく。

 狂おしいほどの激情に駆られ、ハニエルの鼓動が弾みだす。

 先ほどまで悲しみに打ち拉がれていたのに、今は動かずにはいられない。

 懸命に立ちあがり、ハニエルは駆けだした。

 一歩踏み出すとガクリと足の力が抜ける。

 もう一歩踏み出して、瓦礫に足を取られ転び倒れる。

 それでも胸が突き動かすままに、自分が思うままに、ハニエルは前を目指した。




 前の見えない時もある。悲しみに道を失うこともある。

 絶望の雨が降り、悪意の暴風に晒されることもある。

 だがどんな時でも明けない夜はない。

 ぼんやりと白む広間の中で、淡く眩い赤い髪が揺れた。

 その光は長い長い夜の終わりを告げる。




 ハニエルはあの日のように全力でレモリーに駆け寄ると、あの日果たせなかった約束を果たした。

 目を開けて真っ直ぐに自分を見返す彼女に力の限り抱きつく。


「エル……わたしの天使……生きていてよかった…………」


「ハニー……」 


 驚きつつもハニエルを抱きしめ、レモリーは唇を緩ませた。

 何が起きていたのか、長い眠りについていた女王には想像もつかないことだろう。

 だがレモリーはそれでも全てを受け止めるように柔らかく微笑み、傷だらけのハニエルを受け止めた。

 二人の乙女は手を合わせるように握り合い、互いの額を合わせて涙を流した。



 その頭上高く、輝く明けの明星が静かに二人の頬を濡らす涙を照らしていた。 

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