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夜明けの星3

 あの誰もいない神殿での出会い。

 彼と出会えたことがどれだけハニエルに勇気を与えたことか。

 その後も彼は当たり前のようにハニエルの側にいて、そして惜しげもなくその力を注いでくれた。

 ハニエルの両頬を両手で包んだまま、ベルビュートは顔を寄せる。

 まるで瞳で訴えかけるように切なげに瞳を揺らす。

 誰よりも美しく、誰よりも深い、その瞳は、まるでこのゼル離宮の側の湖のように雄大だ。


「ハニー、君を助けたのは盟約なんかじゃない。僕は本当に君が全てだと思っていた。もちろんこれからもずっと……。僕は自分の正体に何となく気付き始めても君と離れるが嫌で、ずっと気付かない振りを続けた。このまま永遠に君の側にいるために……」


「そんな……一言もそんなこと言ってなかったのに……」


「真の名を思い出した僕には、血の盟約を破る力があった。でもそれだけはしたくなかった。君と離れたくなかった。君に悪魔だと知られたくなかった」


 目の前の泣きそうな顔の青年が本当に悪魔だなんて信じられない。

 ハニエルはおずおずとその頬に手を差しのばした。

 まるで子犬のようにベルビュートがその手にすり寄ってくる。

 怯えた青い瞳でじっとハニエルを見返してくる。

 彼もまた運命の迷い子だったのだろう。

 ハニエルの手を握り返しながら、大人の姿で、まるで子どものような顔をする。


「天使じゃなくて、ごめんね?」


「バカッ……。天使じゃなくてもエルはエルでしょ?困った時に助けてくれたのは他でもないあなた。あなたが側にいるだけで、それだけでわたしは嬉しかった」


 小さな少年を慈しむようにハニエルは微笑みを浮かべた。

 だが、何故だかその笑みは強張っていて、いつもの彼女らしくなかった。

 ハニエルは我慢できずにベルビュートに抱きつく。

 その細く引き締まった胸に頭を預け、感情のままにしがみつく。


「ずっとわたしの側にいてよ。ねぇお願いだから………」


 ぽろぽろと金色の瞳から涙が零れる。

 まるで駄々っ子だ。

 つい数刻前まで少年の彼を前に自分が大人でなければと思っていたのに、今は彼に縋るしかできない。

 いや、出会ってから頼ってばかりだったのは自分だ。

 いつも彼の優しさに甘え、わがまま放題だった。

 それに対して彼は、いつも大人びた瞳をして優しく応えてくれた。


「まだお願いって言うんだね」


 寂しげに笑うとベルビュートは一度、愛しくて堪らないとばかりにハニエルをきつく抱き締めた。

 そしてその額に口付けを落とした。

 ゆっくりと顔を離すと、泣きそうなハニエルから一歩離れた。


「真実の名を主に告げ、今、盟約は解かれた――――ごめんね、ハニー……もう僕には君のお願いを聞くこともできない…………」


「そんなっ!嫌よ、ねぇエルいなくならないで。まだあなたと一緒にしたいことがいっぱいあるの。なんて言えば聞いてくれるの?命令なら従ってくれるの?」


 必死に縋りつくハニエルにベルビュートは静かに首を振った。

 愛しさと切なさを噛みしめているような、複雑そうな哀愁にハニエルはただ息を飲んだ。


「もうお別れだ―――――」


 そう言うと崇高な館の主はハニエルに背を向けた。

 彼は自分を見上げるかつての女神と、

 そして驚愕に打ち震えているウヴァルに眼をやる。


「僕らは君たちエクロ=カナンの人間に必要に思われるは嬉しい。ただ、こんな形はいただけない。アシュタロトは君のエクロ=カナンの復活に手を貸したかったみたいだけど、誰かの犠牲の上に簡単に取り戻せるものじゃない。一度悪に手を染めたら、二度と神々しい神になど戻れない。それはきっと、国も一緒だ」


 物静かで、秋霜烈日な声が広間に響く。

 ピンッと張りつめた緊張感に包まれたその広間の中心にいるのは、神と呼ばれるに相応しい人だった。

 ガクリとウヴァルの体から力が抜け、その場に座り込む。

 彼はこの時初めて自分が全てを失ったことに気付いたのだ。

 見せかけの権力はまるで泥の船のようだ。

 自らが豪奢な木の船だと思っている間は洋々と進んできる気にさせられるが、現実は底へ底へと潜っているに過ぎない。


「あ……あぁ……なんで……」


 哀れな青年王にはもう、誰の言葉も聞こえない。

 ベルビュートは悲しげな一瞥を彼に向けたが、もう興味は失せたとばかりに地面に倒れたままのアスタロトの方に腰を折った。

 恭しく手を差し出す。


「さあ、帰ろう、アシュタロト、ここは僕らがいる場所じゃない」


 ベルビュートに手を引かれて立ち上がったのは、儚く美しい女性であった。

 禍々しさは消え、痛恨の面持ちで妙なる青銀の瞳を伏せている。

 消えた左腕がそのままでなければ、きっと彼女が先ほどの悪魔と同一人物だと思わないだろう。

 美しい白銀の髪の下で、彼女は楚々とした涙を流していた。

 こくりと頷くと、美しい女神が小さく萎んだ。

 ぎゅっと収斂した中心が眩く光る。

 それは煌々と照る月の清かなる輝きのようだった。

 そしてその光は膨張して拡散するように広間全部に広がる。

 一つのうねりとなった光は広間を覆う闇を引き連れ、瞬く間に広間を突き破らんばかりにその天井目がけて噴き上がった。


「怒り、悲しみ……。アシュタロト、君の気持ちは分かるよ。悪魔とはいえ自分を必要としてくれる人がいるのは嬉しいよね。でも、その上辺だけで人の欲を叶え続け、月の女神と呼ばれた君もこんな醜悪な姿になっている。本当に言葉とは恐ろしいな。簡単に人の心を変え、その姿を変えてしまう」


 痛々しい声が広間を駆け抜ける光に飲まれた。


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