夜明けの星2
身悶えるような、熱の籠った視線を向けられ、ハニエルは何故だかとても居心地が悪かった。
彼がハニエルの何を責めているのか皆目見当もつかなかったが、彼をやきもきさせたらしい。
恨みがましい美しい瞳に負けて、思わず御免と言うと、青年は嬉しそうに破顔する。
まるで小さな子をあやす様に、空いた手でポンポンとハニエルの頭を撫でる。
その表情や行動が幼いころの彼と被る。
「君は僕が何なのかも知らないのだから、仕方ないんだけどね。でも君が知らない男と一緒にいるのは耐えられなかったな」
「エ、エル?何を言っているの?そ、それよりもなんでこんなにも一瞬で大きくなったの?」
青年の言葉の意味が分からないハニエルはうろたえるばかりだ。
答えを探す瞳はひどく心細げで、それが青年の胸に新たな慕情を生む。
ふと気が付いたように青年は先ほどまで意図的に背を向けていた方を見やった。
振り向くと同時にパチンと指を鳴らす。
その瞬間、彼の視線の先で白銀の剣が細かな粒子になって風に流されていった。
黒い塊がその場で射殺すような禍々しい視線を青年に向けている。
もう意識もないのだろう。
彼の本能というか、残った一握の気概だけが今の彼を突き動かしているようだ。
それでも戦意を失わない孤高の戦士は、立ち上がった。
「背中から虎視耽々と狙われるのはいただけない。いい加減、おやすみ。君が知っていて得することなんてなにもない」
穏やかな笑みを向けられた先では、サリエが悔しげに唇を噛みしめる。
さっき青年によって粉塵にされたのは彼の愛剣だったのだろう。
血をまき散らしながら、一歩前に出る。
彼の気位の高さに押され、周りの空気が逃げ惑う。
ふっと意地悪な笑みを零すと、青年はもう一度指を鳴らした。
瞬間、サリエが打ちつけられていた石柱が砕け、彼の上に雪崩れ落ちる。
ハニエルにはその音しか聞こえない。
不安そうに青年の背中の方を気にするが、青年はにこっと笑い返すばかりで、ハニエルが後ろを見ないようにして顔を近づける。
彼らの背では石柱の残骸が堆く積まれ、黒衣の男など髪の一掴みも見えない。
青年は大きく深呼吸をすると、不自然に天井の方に視線を向けた。
虚無の広間にはもう、かつて広間を彩ったシャンデリアもなく、どこまでも殺風景だ。
それでも青年には何かが見えているのだろう。
例えば終焉の落日が………。
真摯な瞳が愛おしげにハニエルを見返し、細まる。
「ハニー、よく聞いてね。これは悪魔の契約の一種。名を失った者に新しい名を与え、血を与えることで交わす血の盟約。今、僕と君を結ぶのはこの盟約さ」
清浄な水のせせらぎのような響きがハニエルの耳朶に響いた。
余韻すら人を惹きこむ甘さがあるのに、その声が紡ぐ言葉がハニエルの頭の中では意味を成さない。
悪魔の契約に、血の盟約。聞き覚えのない言葉ばかりだ。
まるで身に覚えのないことばかりで、まるで夢物語の続きを聞かされている気になる。
だが見つめる青年の顔は至って真剣だ。
「僕は地獄でベルビュートと呼ばれる悪魔だ。かつてこの国の崇高な館の主―――バアル・ゼブルと呼ばれた神のなれの果てさ。悪魔の烙印を押され、深い森の神殿に封じられた。かつて神と崇められても一度悪魔となり果てるともう元に戻ることはできない。崇める民を失い、邪神と罵られ、暗く陰鬱な時を過ごす中で本来の心を忘れ、僕は身も心も悪魔になっていった。地獄に住み、悪魔を召喚する者にのみ必要とされる、それが唯一の存在意義だ」
抱き締めたハニエルを床に下ろし、その青年、ベルビュートは切なげに瞳を揺らす。
まるで抱きあうような距離にあるハニエルの顔を見つめ、彼は言葉を紡ぐ。
その玲朗な声は空虚な荒野に寂しく響く。
凍りついた孤独は気品さをもって広がっていく。
ベルビュートはそっとハニエルの頬に手を掛けた。
かつて少年の姿だった時のように、壊れ物を扱うかのような繊細な手つきで、頬にできた涙の道を辿る。
ハニエルはされるがまま、食い入るようにベルビュートを見つめる。
彼の言葉は一言一句聞き逃さないと、彼だけに集中する。
「本来なら魔方陣で召喚されなければ、僕たちはこの世には出てこれないはずだった。しかし、封印が緩んだのか、気がつくと僕はかつて僕を奉っていた神殿の中にいた。いつからあそこにいたのか分からない。自分自身のことも、名前も、存在意義も全て。僕は空気と同じだった。そんな僕を君は見つめた」
誰よりも穏やかな声なのに、ベルビュートの声がこんなにもハニエルの胸を揺さぶるのは何故だろう。
これは血を同じくした存在だからこそ共鳴するのだろうか。
切なげなベルビュートの声にハニエルは心の隅で何かを確信した。
だがその何かはぼんやりとしていて、とても口には出せない。
出せば、それが現実になりそうで、ただただ唇を噛みしめて、その何かが零れ出ないようにするのに精いっぱいだった。
今にも泣き出しそうな金色の瞳を見つめ、ベルビュートは穏やかに頬を緩ませる。
彼が悪魔など誰が信じるだろうか。
こんなにも美しく思慮深い悪魔がどこにいるのだろう。
「君は、真の名を忘れていた僕に新たな名を与え、この世界で生きるための生の源である血を与えた」
「名前と血……?」
身に覚えのないハニエルは、違うとばかりに首を振る。
必死に何かを打ち消し、元の関係に戻ろうとする。
そんな彼女が愛しくて仕方ないとばかりにベルビュートは頷いた。
「君は何も意図してなかった。ただ狼にかまれた血が僕の上に落ち、そしてただ愛しい存在の名を呼んだだけ。それが重なっただけだ。でも僕にとってそれはこの世に存在する意義を与えられたのと同じこと。君はあの瞬間、僕の世界の全てになった」
「世界の全てだなんて、そんなつもりは……」
ハニエルは困惑に眉を寄せた。
あの場でベルビュートに出会わなければ、全てを失っていたのはハニエル自身だったかもしれない。
彼の存在がハニエルに勇気と希望を与えたのだ。
それ以上に何を望むのだろう。悪魔であろうが天使であろうが、構わない。
ただエルという少年がハニエルに与えた奇跡が本物なのだから。
ベルビュートはハニエルの全てを自分の記憶に刻みつけるかのように、ハニエルの頬を撫で、その首筋を辿って、肩や腕に触れていく。
その間も慈しむ微笑みを絶やさずに語りかける。
「この血の盟約は、魔方陣を以って交わす契約とは違う。より深い主従関係が結ばれるんだ。自分の真の名は分からなくとも自分が従うべき相手は分かる。名前というのは一種の呪いのようなもので、名前を与えられると名付けた者に逆らえなくなるんだ。でも君は一度も僕を従者だとは見做さなかった。元々盟約を結んだことも分っていないのだから当然なんだけれどね。でもそんな君の全てが眩かった。心惹かれ、ずっと側にいたいと思った。名前など思い出さなくていい。このままでいたいと切実に願った」
その言葉にハニエルの脳裏に彼との思い出が蘇る。
確かに彼は普通の子どもと違っていた。
大人びていて、達観したようなことばかり言う。
そしてたびたびハニエルの言葉を命令かと確認していた。
まさかそんな意味があるなど知らず、ハニエルは自分の思いばかりを彼に伝えていた。
ハニエルの言葉を聞きながら、彼はどんな思いを抱いていたのだろう。