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夜明けの星1

 耳元で囁かれたのは懐かしく、それでいて知らない男のものだった。

 瞬間、ハニエルの体が血潮を得たようにドクンドクンと激しく暴れ出す。

 痛感さえ失い、絶望に染められた体が急に軽くなった。

 柔らかな光に包まれ、ハニエルは天上の世界を想った。

 そんなバカな…と体が一瞬浮かんだイメージを打ち消す。

 ここは神すらも見放した地獄の底で、そしてハニエルの前にいるのは誰もが嫌悪する醜悪な悪魔なはずだ。


 自分の直感と先ほどまでの現実に戸惑うハニエルの赤い髪を優しい風が浚う。

 恐る恐る開いた金色の瞳の見つめた先にはあの悪魔はいなかった。

 その代わり、見たこともない輝かしい金髪を持つ美しくも精悍な青年がハニエルを見下ろしていた。

 湖のように深い青の瞳はとても穏やかで、切ないほどに胸を締め付けられる。

 何がどうなっているのか分からずに、ハニエルは懸命に口を動かしたが、感じたのは気管の痛みだった。

 思わず咳き込んだ彼女を労わるように、柔らかくも甘い声がハニエルの耳元で囁く。


「大丈夫?ゆっくりと息を吸って」


 言われるままになんとか息を吐くと、咳が落ち着き、幾分思考が巡るようになった。

 ハニエルは未だに状況を把握できない瞳で、自分を優しく見つめるその青の瞳を窺う。

 ハニエルの視線に気付くと、彼は屈託なく微笑んだ。

 誰よりも甘く、そして神々しい微笑みだ。

 こんな真直で見つめられるのが恥ずかしいほどに優雅で、ハニエルは言葉を失う。

 彼は抱きかかえたハニエルの体を愛おしげに一度ぎゅっと抱きしめた。

 そして濡れた瞳でじっとハニエルを見つめたまま、そっと囁く。


「会いたかったよ、僕のハニー」


 その言葉にハニエルの中で全てが繋がった。

 だが自分の思いついたことが信じられず、思わず息を飲む。

 呆然と彼を見返し、自分は夢を見ているのかと、恐る恐るとその青年の頬に手をやる。

 そっと触れた肌は滑らかで、そして冷たかった。


「ま、まさか……でも……」


「そう、そのまさかだよ。ハニー」


 確信なき言葉であった。

 だが目の前の青年は屈託ない頬笑みを返す。

 そう、ハニエルの知っている少年と同じ甘く涼やかな笑みを。

 威厳のある黒い衣に身を包んだ青年はもうハニエルが知っている少年ではなかった。

 背も体格もハニエルよりも大きくなっている。

 愛らしかった顔は甘さを少し残して精悍に引き締まっていた。

 その姿は妄想の中で一度見た、成長した彼の姿にそっくりだった。


「な、なんで……」


 驚くハニエルを抱き締めたまま、青年は困ったように微笑んだ。

 ハニエルの言葉にどう答えようとか考えあぐねているように見えた。

 ふと彼の視線が自分の足元に向かう。

 それにつられるようにハニエルも彼の視線を辿る。

 そして彼が見つめるものが何なのかに気付き、今さらながらビクリと身を震わせた。

 それは先ほどまで自分を殺そうとしていた、絶対的な力を誇る、哀れな悪魔だった。

 アスタロトは先ほどまでの余裕もなく、無残に地面に転がされていた。

 げっそりとこけた頬は何かに怯えるように引きつり、そのヘドロのような髪の間から伸びた立派な角は折れて、瓦礫に転がっている。

 まるで小さな子どもが親の折檻に怯えるように、青銀の瞳がこちらを見上げている。

 その哀れな悪魔を見下ろし、青年は月の光のように静寂な眼差しを向ける。

 その口元に浮かんだ微笑みには自嘲と憐憫が籠っていた。


「アスタロト。……いや、かつてエクロ=カナンで月の女神と崇められていたアシュタロト。痛い思いをさせたな。だが僕も僕の主人を傷つける者を許す訳にはいかないからね」


 醜悪な顔の中で一際存在感を放つ落ち窪んだ眼に驚きを浮かべた。

 戦慄く口は何と言葉を紡げばいいのか分からないようだった。

 悲しみに憂いた月の女神は、今にも泣き出しそうだった。


「……しゅ、主人って……」


 ハニエルは青年の言葉の中に身に覚えのない言葉を見つけ、ポツリと呟いた。 

 本当はもっと色々な事が聞きたい。

 何故彼がここにいるのか。彼とアスタロトはどういう関係なのか。

 そして何よりハニエルはちゃんと生きているのか、どうかだ。

 これは都合のいい夢ではないのか。

 ならば後は全て解決する。

 夢ならば、ハニエルの都合のいいように全てが流れていくのだから。

 今の状況はどう考えても夢でしかない。

 いや、夢であってほしい。

 真実は少年エルを思いながらハニエルは死に、今は穏やかな死が見せる夢の世界にいるのだ。

 混乱に混乱を重ねた金色の瞳を慈しむように見返した青年は、ハニエルが愛しくて仕方ないとばかりに甘美な笑みを浮かべる。


「落ち着いてね、ハニー。これは夢なんかじゃない。残念ながら現実さ」


 そう言って青年はハニエルに見せるように玉座の方を振り向いた。

 そこに広がるのは巨大な荒野だった。灰色の瓦礫の上に、傾いた玉座があった。

 もう誰も坐る者のいない、哀れな玉座が泣いているように見えた。

 その玉座以外、形らしい形はない。瓦礫が地面を覆い、どんよりとした瘴気が辺りを包んでいる。

 先ほどハニエルが見ていたままの光景だ。血に濡れたまま動かない彼らの姿もそのままだった。

 ヒュッとハニエルは息を飲んだ。

 思わず駆け寄らんと青年の腕の中で身じろぐ。

 そのハニエルを優しく抱き止め、青年はそっとその耳朶に囁く。


「大丈夫だ。まだ死んでない。本当に、驚くほどに頑丈な人間だ」


 呆れているようで、どこか楽しんでいるようにクスッと笑みを零すと、心底安心しているハニエルには気付かれないように視線を広間の壁に向けた。

 黒衣に身を包んだ襤褸切れが視線に応えるようにピクリと動く。

 あえてその黒い塊に背を向けて、ハニエルの視界からそれを隠すと青年はハニエルの髪にそっと口付けた。


「ハニー、君が僕の名前をいつ呼んでくれるのかと冷や冷やしたよ。あの地下牢で拒絶されてから、僕はもう狂いそうなほど君のことばかりを考えていた。何故僕を求めてくれないのかと、君を恨みもした。あれ以上遅かったら……僕は全てを擲ってでもこの場から君だけを奪い去っていただろうね」


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