死と絶望のダンス5
細められた金色の瞳が朽ちた玉座へ向けられる。
そこでは一人の青年が呆然とこちらを見返している。
こちらのやり取りなどまるで耳に入っていないように見える。
これは大きな賭けだった。
始めから勝ちは期待していない。
だがもうハニエルにはこの手以外残っていなかった。
何の力もない存在で、有形力でアスタロトに勝とうなど思うほどハニエルも愚かではない。
それでもこの場を切りぬくために唯一ハニエルに残された道は、己の直感を信じることだ。
この悪魔らしくない悪魔はきっとこんな惨劇を望んじゃいない。
それは彼の瞳を見て、ハニエルが感じたことだ。
だから賭けることにした。己の全てをその直感に。
もし外れても、レモリーが生き帰ることに間違えはない。
そう知っているからこそできる大胆な賭けでもあった。
(皆、もう少し踏ん張ってね。わたしは絶対にこの賭けに勝つ)
ちらりと自分の後ろを振り返り、強く願う。
もう神に祈るには遅すぎる。
だが、彼らの未来ある魂に祈るにはまだ充分な時間が残されているはずだ。
はぁはぁと肩で息をしながら、それでもハニエルはアスタロトに向かって、瓦礫の上を這う。
その姿はなんともみっともなく、もはや聖女らしさの欠片もない。
だがその姿に反して、その瞳の神々しさは何と表すればいいのだろうか。
「……わたしは最後までこの想いを捨てないし、揺れたりしない。それでもって立ち止まれないっ!」
ガッと頭が持ちあがる。まるで暁の空のように眩い髪の下から、気高い顔が姿を現す。
か細い足が力強く瓦礫を踏みしめ、その場に立ちあがる。
傷だらけで立つのもやっとの乙女の足はガクガクと震えている。
顔は引きつり、その柔肌は裂け、血が滴り落ちている。
それでもその姿は威厳に満ちている。
アスタロトはしばし目を閉じていたが、自らの前に立ちはだかった乙女に静かな瞳を向けた。
その瞳は誰よりも美しい青銀に輝いていた。
「それがあなたの望みならば………」
「ア、アスタロト…………」
まるで迷子の子が自分の保護者を探しているような、弱々しい声がした。
それは慣れの従者の忠誠に不安を抱いているようにも、これから起きる悲劇を止めようとしているようにも聞こえた。
だがアスタロトの動きは止まらない。
そっとハニエルの方へと手が伸ばされる。
ハニエルはその大きく禍々しい手を真摯な気持ちで見つめていた。
そっと瞳を閉じる。
色々なことが脳裏を過ぎる。
ここに至るまではなんと長い時間だったのだろう。
自分の一生からすれば、瞬きほどの短な時間であったが、今まで生きてきた中で一番生きていると実感させられた。
「アスタロト、あなたを信じるわ」
ひんやりとした手がハニエルの喉に絡まる。
その時、ハニエルの後ろでその本音を揺るがすように、カランと瓦礫が転がる音がした。
ドクン――と鼓動が跳ねる。その変化をアスタロトは逃さない。
ハニエルが後ろを振り向かないように、ぎゅっと手に力を込める。
「なんと、しつこい男ですね」
流石のアスタロトも呆れたようにため息を吐く。
その吐息に応えるようにハニエルの後ろで空気が震えた。
爆発しそうな心臓に感化され、鏡のように澄んだハニエルの心が小波をたてる。
なんとか後ろに向けた瞳が、見つめる先に身じろぐ黒を見つけ、耐えきれずに潤みだす。
すっと清浄な雫が零れる。
「サ、サリエ………」
「よく……言われる……」
フッとサリエの口から吐息が零れる。
ゆっくりと顔を上げたサリエの左目からはらりと黒い眼帯が落ちた。
今まであのか細い紐でもっていたのが不思議なくらいだ。
黒い眼帯の下から現れた真っ赤な瞳が真っ直ぐにアスタロトを睨みつける。
地獄の業火よりもまだ深く、真紅の瞳が闇を切り裂かんと燃えさかる。
その瞳だけでアスタロトを射殺せる勢いがあった。
「……昔に見た男と同じ色をしてるんですね。ですが、今はどうでもいい。もう少し寝ていなさい」
アスタロトがハニエルを縊り殺そうとしている手とは反対の手をサリエに向けた。
瞬間、サリエが再度石柱に叩きつけられる。
あまりの衝撃にそのまま石柱を粉砕し、奥の壁にのめり込む。
かつて神と呼ばれた者を前に、いくら神に匹敵する力を持つ男でも太刀打ちできないのだろう。
ぐしゃりと堕ちた襤褸切れのような体を見ていれなくて、ハニエルは視線を逸らす。
何故彼はあんな姿になってもまだ立ち上がろうとするのだろう。
見ているのも忍びないほど、誇りと自尊心でのみ成り立っている男がそれらを完膚なきまでに叩き潰されても、無様に立ちあがってくる。
前へ前へと進もうと、曲がった手が宙を掻く。
「……もういいから………もう頑張らないで………」
いやいやをする駄々っ子のようにハニエルは激しく首を振った。
頬を濡らす涙が飛び散る。
抑えきれない感情に我を忘れたハニエルを抑えつけようとアスタロトの拘束がきつくなる。
その手がハニエルの首にかかっていた革の紐に引っかかった。
だがハニエルにはそんなことは分からない。
息苦しさに無意識に両手が宙を掴もうとする。
だがそれも一瞬のこと、すぐに痺れる手は力尽き、死を受け止めんとだらりと落ちる。
自分の首に手をかけるアスタロトを真っ直ぐに見つめた。
(あぁ……わたしは死ぬんだわ)
遠ざかっていく意識の中で、まるでハニエルの心に呼応するように、何かが自分の身から落ちていくのを感じた。
それに引かれるように、視線だけを下に下げる。
ぼんやりと霞んでいく視界の中で、それだけがくっきりと目に焼きつく。
それはまるで風の河を渡る船のように、ゆっくりと瓦礫の中に飲み込まれていく。
キラリと光を照り返すそれがハニエルの心に突き刺さる。
(あれは………)
それは、月の形をしたネックレスだった。
まるでハニエルの頬から流れる涙のように、くすんだ銀色は音もなく落ちていき、澱んだ大理石の床で跳ねた。
(あれは………エルの首飾り………)
ぼんやりと白む意識の中で、何かが形づくる。
それはあっという間にハニエルの心を占領し、心に小波を立てる。
大きな円らな瞳を揺らし、その少年は真っ直ぐにハニエルを見返していた。
偽りなくハニエルを愛する純真無垢な瞳には、ありしのハニエルが映っている。
(エル……わたしの大切な存在……)
絶望が支配する虚無の空間の中、ハニエルが最後に見たのは、心安くそして美しい光景だった。
その光景を最後に映し出した瞳から暖かい涙が零れる。
「……エル……エル、あなたに会えてよかった。またどこかで会えるかしら……わたしの小さな光」
薄れゆく意識の中、かすれように遠くにいる愛しい存在の名を呼んだ。
風に乗って、この気持ちだけでも届いてくれたら………。
僅かにでも自分の最後の想いを彼が知ってくれたら、そして彼が立派に生きてくれたら、これ以上に嬉しいことはない。
そう思って消えてけるのなら、きっと誰よりも自分は幸せなはずだ。
そう瞳を閉じた瞬間、瞼越しでも感じるほど眩い閃光が広がった。
「やっと、名前を呼んでくれたね?」