死と絶望のダンス3
淡々とした声は常よりも興奮気味で、濡れるように艶かしかった。
一瞬、自分のいる場所が天国なのだろうかと、ありえない妄想を抱くほどその声はハニエルの心を高ぶらせる。
ハニエルを包む腕はなんとも逞しく、その温かさに更に涙が溢れてくる。
ハニエルは縋るように、自分を抱き締める存在に目を向けた。
「なんで……」
涙に潤んだ瞳でも分かる。
そこにいるのは片手でハニエルを抱き、反対の手に握りしめた剣をアスタロトの額に向けるサリエだった。
いつも余裕綽綽な彼らしくない。
後ろに撫でつけた髪が乱れ、その白皙の額にパサリとかかっている。
秀麗な顔は青白く、強張っていた。
その黒衣の下も満身創痍で、鋭い大理石の杭に幾つも貫かれた脚からは鮮血が迸る。
床に片足を着きながらハニエルを受け止め、見下ろすアスタロトと対峙している。
だがそんな状況でもこの男は不敵に嗤う。
「愚問だな。答えは一つ。俺はお前の闇を払うと約束したから……」
ハニエルを支える手は僅かに痙攣している。
よく見れば、その上腕は深く裂け、黒衣の下にある肉が見えた。
正気を保つのも難しいほどの傷だ。
それでもサリエは常と変わらない瞳の色で、真っ直ぐにアスタロトを睨みつけている。
かつて神と呼ばれ、千年間、鬱屈とした感情を抱きながら壺の中で生きてきた憎悪の塊を前にしても、畏怖することはない。
彼は神だろうか。
骨の髄まで彼の色に染まっていくのを感じながら、ハニエルは呆然と彼の顔を見上げた。
サリエが剣の切っ先をアスタロトの額に向ける。
「……何故ただの人間がその力を………それは……」
アスタロトが数歩後づさった。
理解できないとばかりに瞳が戦慄く。
彼が驚くのも無理はない。
きっと先ほどの彼の衝撃波でハニエル以外皆片付けたと思っていたのだろう。
消したと思っていた存在が今目の前におり、彼の脅威となって牙を剥いている。
「……ちっ、的を外したか……その脳天をぶっ飛ばしてやりたかったのに……」
腹立たしげに舌打ちするサリエが見つめる先、ハニエルは引かれるようにアスタロトの左手を見つめた。
先ほどまでハニエルの喉を押さえつけていた手だ。
しかしその手は今はない。
喪失してしまっているのだ。
肩からごっそりと、まるで元からなかったかのように消え去っている。
片腕の悪魔は身を軋ませ、目の前にいる悪魔すら驚愕させる力を持つ男を見つめている。
人ごときに攻撃されたことよりも自分がどういった力で傷つけられたか、心底不思議であるらしい。
サリエが余裕ない瞳を不敵に歪める。
キンッと雪の結晶が触れ合うような硬質の音を響かせ、サリエが剣を構え直した。
ハニエルをその背に追いやりながら、サリエが身を起こした。
その身からパラパラと細かな破片が落ちた。
白かった大理石は全てサリエの血で真っ赤に染まっている。
サリエは無理たり息を吐くと、腕に力を入れた。
剣の先をアスタロトに定めたまま、雄弁を振るう。
「お前が神と呼ばれていた時代、多くの人間が同じように特殊な力を使えたはずだ。その中でも抜きんでて不可思議な力を使うものが神となっていった。だがしかし、何故か聖域に統一されてから、その力の発現は一部に限られていた」
淡々と紡がれる言葉はまるで感情のない抒情詩のようだ。
無が広がる広間に滔々と広がり、意味をなす。
ハニエルにとっては初めて聞くことであったが、アスタロトもウヴァルも何も反論しないところを見ると、それは世界の真理なのかもしれない。
黒衣の聖職者は真っ直ぐにアスタロトを見つめながら、語り続ける。
「だが皆無ではない。なら理解できるだろ?お前らを地獄に追いやった奴と同じ力を持っている者が現れてもおかしくないと……」
「同じ力………それがもしかして………」
アスタロトの瞳が大きく見開かれた。
サリエが不敵に嗤う。
「破壊っ―――――――」
瞬時、白い閃光が走る。
ハニエルは耳を劈く空気の悲鳴に思わず目を瞑った。
何が起きているのか分からない。
先ほどからサリエが何を言っているのか、彼がどんな方法でアスタロトを圧倒して追い込んでいるのか、ハニエルには想像もつかないことだった。
真理や使命など高尚な言葉ではけして語れないほど陳腐で人間臭い思いが胸を占める。
胸が熱くなる。ドクンと心臓が高鳴る。
ハニエルは瓦礫の上から身を起こしながら、縋るようにサリエの背を探す。
「サリエ………」
金色の瞳の前には広い背があった。
大きく息を吐く度に揺れるその背は限界を超えているのだろう。
片手で剣を支える腕が小刻みに震えており、反対側の手は指先から血の雫が滴り落ちている。
立っているのもやっとの姿だ。
だが対する悪魔は先ほどと変わらずに、憂いを帯びた瞳で同情するようにサリエを見返している。
「他愛もない……」
そう言ったアスタロトの体には何の傷もない。
真っ直ぐに背を伸ばし、じっとサリエを見つめ返す。
先ほどの閃光はアスタロトの側を通り抜けてしまったのだろうか。
あれほどの熱量を誇りながらも、彼自身に目に見える変化はなかった。
その顔には自分の腕を消された恨みなどなく、まるでサリエを同情しているかのように目を細めている。
「流石……そう褒めて差し上げますが、所詮人の身ではそれが限界でしょう。私の腕を消し去っただけでも奇跡。だがもう貴方には何の力も残ってはいない」
「っっざけんな………」
サリエが片手で剣を握り返す。
キラリと切っ先が輝くが、あまりにも弱々しい輝きだった。