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死と絶望のダンス2

 抑揚なくそう告げた悪魔が、何故かハニエルには悲しみに濡れた女神の横顔に見えた。

 アスタロトは彼の主人の意思を仰ぐように、背後に一瞥を向けた。

 その悪魔の背に広がるのは地獄だった。

 地獄の底には一人の青年が立ち竦んでいる。

 今にも泣きそうな青銀の瞳を揺らし、縋るようにこちらを見つめている。

 彼の意図はその瞳からは読めない。

 彼の頭上では、全て俯瞰するように彼の姉が浮かんでいる。

 眠れる女王は先ほど以上に顔色を変え、頑なに現実を拒否しているように青褪めて見えた。


「………エ、エル……………」 


 本能が求めるように、ハニエルの手がレモリーの方へ伸びた。

 弱々しい手が限界まで伸ばされるが、レモリーとハニエルの距離はそんなものでは埋まらない。

 その最期の希望を目の前の悪魔が打ち砕く。


「主の望みです。あなたはレモリー・カナンに代わり死なねばなりません」


 何もない空虚な声だった。

 音もなく心に広がるのは虚無だ。

 この悪魔は醜悪な姿をしているのに、発する気配は空虚のようだ。

 宙に投げ出された脚の先から凍りついていく。

 掴まれた手に力なく掛けられた手が滑り落ちていく。

 それでもレモリーに向かって伸ばされた手は懸命に彼女の方へ伸ばされている。

 きっとハニエルが死してもその手だけはレモリーを求めていることだろう。

 アスタロトが手をかけなくとも、ハニエルはこのまま死の淵にズブズブとはまっていくほどに衰弱していた。

 ハニエルの瞳が悪魔を見返す。

 恐怖もなく、無垢な子供のように真っ直ぐにアスタロトの瞳を見つめた。


「エルは……生きているの………」


「生きているといえば、生きていらっしゃいます。いわば仮死状態。あの魔法陣の力で彼女を包む時ごと眠らせておりますが、いつまでもそのままではいられない。彼女はあそこから出た瞬間から死に晒される」


 アスタロトはハニエルの疑問に生真面目に応えた。

 その見た目に反して穏やかな声はするりとハニエルの心に溶け込んだ。

 誰もが顔を背ける顔はよく見ると、元は端正で、優美な顔立ちだったのではないかと思わされる。

 千年の月日が骨を覆う皮膚を腐らせ、歪ませたのだろう。


「私には彼女を生き返らせることはできません。死体のまま動かすことは可能ですが、それを生きているとは言いません。ですが彼女を救う方法はいくつかあります。例えば元気な貴女の身体に彼女の魂を埋め込む方法など……これが一番リスクの少ない方法で、我が主人の望みです」


 成程とハニエルは納得した。

 だからウヴァルはウォルセレンに対し、ハニエルを妃に迎えたいと言ってきたのだ。

 表向きはハニエルである方が、王としての立場を保つことができる。

 いくら絶対的な王権を揮える立場にいても、姉と弟が結婚することはできない。

 それに邪魔者であるハニエルも一緒に消せるのだから、これ以上の方法はない


 自分は死ぬのだ。 

 その未来をハニエルはそのまま受け止めた。

 死とはどういう状況なのだろうか。

 死んだ後、ハニエルが行く先は天国なのだろうか。それとも悪魔のいる地獄だろうか。

 どうでもいいことばかりが頭を駆け巡った。

 視線の定まらない瞳が呆然とアスタロトの心を窺うように揺れた。


「………じゃあ、わたしが体を差し出せば、エルは元に戻れるの?」


 死への恐怖はない。

 ただ絶望の内に死んでいくはずだった自分に死ぬ目的が出来ただけだ。

 それでも何もなく死んでいくよりも死ぬ大義名分がある方が幾分死にやすいものだ。

 ハニエルの心から悔恨の情は消え、平穏を取り戻す。

 金色の瞳からすっと清浄な涙が流れる。

 その口元にうっすらと頬笑みが浮かぶ。


 アスタロトは僅かに戸惑ったように息を飲んだ。

 だがその手を緩めたりはしない。

 自分を怖がらず真っ直ぐに見つめる乙女に、どうしていいのか困惑しているかのように見えた。

 喉を抑えつけられながら、ハニエルは息も絶え絶えに訴えかける。


「……なら、望んでこの体をあなたにあげるわ。いいえ、体だけじゃない。命も上げる。全部好きなだけ持っていきなさい。だからお願いよ。わたしの体でレモリーを、わたしの命でこの場にいる皆の命を救って……」


 虫のいい話であると分かっている。

 そして懇願する相手を間違っているのも知っている。

 だがどうか是と答えてほしい。

 そうでないとどれだけ覚悟を決めても死に切れない。

 今にも気を失いそうな金色の瞳が最後の力を振り絞り、切実な心情を顕わにする。

 レモリーへと伸ばされた手がそっと穢れた顔に触れる。

 そっとアスタロトの頬をハニエルの手が包み込む。


「あなたにも分かるでしょ……大切な人を失う恐ろしさを……。あなたがかつて人々に崇められていた神ならば、自分に捧げられる純粋な祈りの言葉を知っているはず……」


 アスタロトの瞳が震えあがった。

 煉獄の闇を思わせる彼の瘴気がゾワリと身震いする。

 ハニエルの首を掴む手が僅かに緩む。

 落ち窪んだ眼窩が波打った。それは彼が見せた表情らしい表情だ。


「貴女は…何故、このような状況下にあってもまだ諦めないのですか?」


「…ぇ?」


 アスタロトの言葉の意味が分からず、ハニエルは彼を見返した。

 彼は信じられないといった面持ちでハニエルを見つめている。

 恐れているような、惹かれているような、不思議と恐怖を感じさせない顔だった。

 アスタロトの口が戦慄く。

 だが彼の望んだ答えが返る前に、その背に激しい檄が飛ぶ。


「アスタロト!何をしている!早く全てを終わらせろ!」


 ハッと自分に課せられた命令を思い出したアスタロトは後ろを一瞥した。

 その静も動もない瞳が険しく細められる。

 そのアスタロトの顔に影が出来た。

 瞬間、アスタロトの体に緊張が走った。


 音もなく何かが爆ぜる。

 脅えるように振動する空気がハニエルの体を突き抜けていく。


 小さく息を飲み、ハニエルを締め付けていた手がハニエルの喉を離れた。

 何が起きたのか、ハニエルには分からない。 

 分かることは、ハニエルの身体がゆっくりと床へと落下していくだけ。

 床に落ちていきながらハニエルは呆然と目の前の景色を見ていた。

 今まで感情などなかったアスタロトが見せた隙。

 そしてその悪魔目がけ下される正義の鉄槌。

 渦巻く轟風を頭上に見つめながら、ハニエルは見知った姿に胸が締め付けられた。

 鋭い剣先が闇を切り裂かんと煌めき、瞬間、爆ぜた。


「破壊ッ―――――――」


 視界が白く弾ける。

 ハニエルには何も見えない。

 雄々しく迷いのない声がハニエルの頭の中で共鳴する。

 死に包まれて、まどろんでいた体が急にざわめく。

 誰も抗うことはできない。

 昂ぶる胸の鼓動がハニエルの心を鷲掴む。


「あぁ…………」


 はらりとハニエルの頬を離れた涙が宙に浮いた。

 その雫が床に落ちる寸前、ハニエルの身を何かがガシッと力強く抱きしめた。


「おい、一応壊れ物だ。大切に扱え」



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