世界の終りで8
清々しほどあっさりとした言葉に、皆が唖然とする。
そこは嘘でもあると言ってほしいところだ。
だが、そんなことで言い合っている余裕などはない。
絶望が嬉々として押し寄せてくる。
ハニエルは側の男達に目をやる。
ラフィもカンザスも顔は険しいが、強張った表情には悲壮な決意が満ち満ちていた。
このまま自分の意思に殉ずるつもりなのだとその目が語る。
最後にサリエの横顔へ目をやる。
相も変わらず、しらっとした腹立たしいほど余裕に満ちた無表情だ。
もちろんそこには生と死への恐怖も葛藤もない。
その顔が不意に微笑んだ。誰もが見惚れるほど優雅で、滴る色気を含んだ黒曜石の瞳が生き生きと輝く。
「だが、ラフィの言うとおり。このままいいように弄ばれるのは気に食わん。さて、どうしたものか………」
悠然と唇に細長い指を当て、もったいぶったように言葉を切る。
ゆっくりと唇を撫でる指がもどかしく、ハニエルは思わずサリエのマントに縋った。
このような状況下にあってもまだ余裕めいた態度ではぐらかされるのは、もう耐えられない。
「サリエ、お願いよ。あなたにこの広間から抜け出す道が見えているなら、わたしにも道を指し示して。わたしにはもう、何も見えない」
ハニエルの金色の瞳は切実だった。
どれだけの仲間に囲まれていても差し迫る悪意から逃れる術など彼女にはなかった。
ハニエルに出来ることはただ、広間の中心で眠るように身を横たえているレモリーの幸せを祈るだけ。
レモリーが生きているのか、それとも死んでいるのか。
もうハニエルには確かめる術はない。
もしも願いが叶うなら、共に生きて光の下で抱きあいたい。
いや、もうレモリーが無事に生きて、また笑ってくれるならば、この命など簡単にくれてやるつもりだ。
だがウヴァルは、そのささやかな夢を潰そうと無情な牙を剥く。
レモリーは歪な円の中にいて、ハニエルには近寄ることもできない。
あれはきっと悪魔の領域だ。
「おい、衛兵」
不意に呼びかけられ、カンザスはビクリと身を竦ませた。
一瞬サリエが何を言っているのか分からなかったようだ。
カンザスがサリエの方を振り返る。
「怖いか、震えてるぜ?」
「な、何を……これは武者震いや。どこの戦場でももれなく皆震えとるわ!」
「強がりは一端だな。まぁいい。お前に聖女を守る栄誉を与えてやろう」
サリエは不敵に微笑む。その言葉の意味が分からないカンザスは眉を顰めたが、それ以上何も言わなかった。
サリエが広間の中央に血で描かれた歪な円の方に顎を向けた。
それにひかれるようにカンザスの視線がそこに行く。
「あそこ、広間の中心に女が寝ているのが分かるか。そしてあの周りに歪な円が描かれていることを……。あの中は一種の異空間となっているようだ。細かいことは端折るが、女王の命を守るためにそれを脅かす者が近寄れないようにしているのだろうな。だが反対に脅かさぬ者は入れるってことだ。さっき試しに剣を差してみたらまるで円の外を滑るように拒絶された。しかし、何も考えずに手を入れてみたところ、すんなりとすり抜けた」
「どういう意味や?」
「あぁ?お前の空っぽの頭で意味なんか考えるな。これだけ分かっていれば充分だろ?あそこには大切なものがあるから、絶対にアスタロトは攻撃を仕掛けたりしない。お前はこのじゃじゃ馬を連れて、あの円の中に逃げ込めっ」
絶大な自信を持って語られる。
何時の間にそんなことを試していたのか知れないが、サリエのことだ。早い段階で状況を見極めていたのかもしれない。
それは世界の真理と言っても差し支えないほど、絶対的な説得力を持ってカンザスの耳に届いた。
「そんなっ!サリエとラフィはどうするの?」
驚くように声を上げ、ハニエルはサリエに縋った。
どうか自分達を盾にするようなことだけはしてほしくなかった。
呆然としているハニエルにサリエは厳しい眼を向けた。
その瞳の中に烈火がある。
余裕綽々だと思っていたが、それは彼の理性のなせる技だったのかもしれない。
ふとハニエルはそう思った。
彼もまたこの異様な空間をどう切り抜けるか考え、葛藤していたのかもしれない。
サリエの手が、マントに縋りつくハニエルの手を拒絶するように打ち払った。
「あんな化け物相手にお前は足手まといだ。自分の身は自分で守れ」
「そんな言い方……」
それは事実だ。突き放すような冷たい口ぶりがハニエルの胸に突き刺さる。
これは彼の本心じゃない。
短い付き合いの中でそうと分かっていても、動揺が隠せない。
足手まといでも少しでも彼の役に立ちたかった。
そのハニエルの戸惑う顔に構わず、サリエが続ける。
「いいか、俺の声が合図だ。お前らは一気に円に逃げろ。あそこにいる限りある程度身を守れるはずだ」
「で、でも……」
「オレも却下やっ!オレも戦う。もちろんハニエルを円に逃がしてからやけど……」
力強く剣を構え直すとペリドットの瞳をキリリと輝かせる。
そこにはもう絶望の色はなかった。血気盛んな戦士の、世界に挑戦するような野心が燃えさかっている。
「オレのこと、舐めとったらアカンで!オレは聖域で暴れる黒き鷲って呼ばれてるんや!」
今にも敵に向かって飛び出しそうな弾丸を横目にサリエがため息を吐く。
それをラフィが大げさに肩を竦めた。
「何言っても聞かないぜ?こいつ、どっかのお姫様と同じタイプだ」
「好きにしろ」
やはり彼らはどんな状況下にあっても自分達のリズムを変えたりはしないらしい。
どんな時でも自分らしく、それを突き通す力が彼らの原動力なのかもしれない。
戸惑う視線を向けるハニエルに構わず、サリエが一歩前に出た。
毅然とウヴァルを見据えたまま、静かに全員に問う。
「準備はいいか?」
「いつでもオッケ~!」
「オレは常に臨戦態勢やっ!」
「ええ……でも……」
役に立たないのは分かっているが、一人逃げるというのは気が引ける。
縋るようにサリエを見上げた金色に何者にも染まらない黒が映り込む。
声が迷うように尻つぼみになっていく。
本当にこれが、最善の選択なのだろうか。
釈然とせず、だからと言って他の方法など思いつかないハニエルは、非力な自分を悔やむ様に唇を噛みしめた。
そのハニエルの頭上にため息が落ちた。
ハニエルの方に向き直ったサリエが、心底嫌そうな顔をしてハニエルを見下している。
「莫迦のくせに、色々知恵を巡らすな」
「なんですって!」
「莫迦は莫迦らしく、前だけ見とけ」
そう言ってのけると、サリエはおもむろにハニエルの頬に手を伸ばした。
凍りついた頬に冷やかなサリエの指が触れ、ハニエルはビクリと身を縮ませた。
怯えたような目でサリエを見上げる。
この時ばかりは何の強がりも起らなかった。
「サリエ………やっぱりわたしも……」
そう言いかけた瞬間、ぎゅむっ――と伸ばされた指がハニエルの頬を摘まんだ。