世界の終りで4
痛々しい沈黙が広間を支配する。
その沈黙を破ったのは意外にもウヴァルだった。
パチパチと乾いた音が広間の奥から響いた。
玉座に浅く腰かけ、悠々と凭れかかっているウヴァルは、心底楽しそうに愉悦に潤んだ青銀の瞳をラフィに向けていた。
悠然と手を叩きながら、ウヴァルは声を高く笑いだした。
「あははははははっ、それが君の恩恵ってやつ?噂の死の天使が悪魔の申し子だって?」
ハニエルにはウヴァルが何を言っているのか分からなかった。
だが何を指して「恩恵」と表現したのかは分かった。
ラフィのあの力は、まるで風が彼に従っているかのようだった。
あれを特別な恩恵だと言わず、なんと表現すればいいのか。
ウヴァルは悪魔の申し子だと言ったが、とんでもない。
あれこそが神の与えたもうた奇跡だ。
よくよく思い出せば、ラフィはいつも穏やかな風に包まれていた。
この広間でも、城の地下でもラフィが側にいると息苦しさが半減した。
彼は何も言わなかったが、そうやってハニエルを守ってくれていたのかもしれない。
ラフィは小さくため息を吐くと、面白くなさそうに頭を掻いた。
「まぁいろんな言い方があるが、一応おれは聖域の司教なんでね、神の愛し子と呼んでくれるかい?」
「ははっ、どっちでも人ならざる者に違いない。それより、いいのか?あの蛇ごときに最後の切り札を使って。それで俺を出し抜こうと思ってたんじゃないのか?」
ラフィの力を見た後もウヴァルの余裕は変わらない。
敵の思わぬ力に更に事態が面白くなったとばかりに喉を鳴らす。
彼らの会話の意味が分からないハニエルは少しでも彼らの話に加わろうと、守るように目の前に立つカンザスの後ろから一歩前に出た。
「恩恵って?」
「何言ってるか分からないって顔しているね、ハニー。君は本当に何も知らない。仕方ないから俺が教えてあげるよ」
そう言うとウヴァルは玉座から立ち上がった。
そして数段高くなった玉座の間から下々のいる広間の方へと足を踏み出した。
カツンッと広い階段を打つ硬質な足音が響く。
「この世には人と違う力を持つ者がいる。例えばその子の亜麻色の髪の男みたいに風と共鳴できる者だな。人の思考を読める者なんかもいる。その種は様々で大きく見れば誰よりも足が速い者や頭の回転が早い者も含まれるかもね。ちょっとした特技だよ。こういう力を恩恵って言ったりする……」
「そんでもって恩恵を持つ者を神の愛し子と呼んだり、反対に悪魔の申し子と言ったりもする。まぁ同じ力でも見た人の感覚で神にも悪魔にもなり得るってことかな?」
ウヴァルの言葉に被るようにラフィがそう言い切る。
「神にも悪魔にも……」
ハニエルはラフィの言葉を繰り返した。それはハニエルの知っている言葉によく似ていた。
ウヴァルは更に一歩踏み出し、そして哀れむように首を振った。
「違うよ、ハニー。一度悪魔に堕ちれば、もう元には戻れない。悪魔は悪魔さ」
手を高く上げたウヴァルが指を鳴らす。
その瞬間、バァンっと激しい音と共に広間にある唯一の扉が閉まった。
闇がその濃さを増す。
「なっ何を!」
慌ててハニエルが扉の方に振り向くが、扉は固く閉じられており、その前には幾人もの騎士が立ちはだかっている。
騎士達はもう人ではなかった。
ある者は腕が千切れ、ある者は目が抉れている。
皆一様に生気のない胡乱な顔で恨めしげにハニエル達を見つめている。
ゾッと骨の髄から這い上がる生理的な悪寒にハニエルは身震いが止まらなかった。
先ほどまでハニエルを守っていたラフィの風の加護はもう消え失せている。
閉じられた空間にはラフィのような颯爽とした風はない。
あるのはただ重く垂れこみ腐臭に満ちた一握の空気のみ――――。
「さて、実に面白い見世物だったが、もう飽きた。ああ、違うな。風の男は実に興味深い。このちんけな三文芝居で得るものがあるなんて、本当に世の中は何があるか分からない」
クスッと笑うとウヴァルはもう一度指を鳴らした。
それに導かれるように、広間に落ちた影の中で何かが蠢く。
平面的な影の動きが突如、立体を取った。
ズリッズリッと耳障りな音とともに影から何かが姿を現す。
「アスタロト、あの男に君のキスを与えろ。きっとセオ以上に役立つおもちゃになる」
ウヴァルはそっと後ろを振り返り、楚々と控える従者に目配せをした。
彼はどんな姿をしていてもその慇懃な態度を変えることはない。
人がイメージする悪魔とはどこかずれていて、人よりも理性的に見えた。
ここにいる者はウヴァルも含め、皆己の感情に振り回され、慣れない環境に戸惑っている。
だがアスタロトだけがありのままの事象を受け止め、粛々とそれを受け入れる。
「御意」
アスタロトは自らの髪へと手を差し入れると、髪を一本抜いた。
一本の細い髪は俄かに一匹の蛇へと姿を変える。
アスタロトはそっと腰を屈め、その蛇を床へと放つ。
蛇は主人に円らな瞳を向け、まるで家畜が主人に媚びるように鎌首を揺らす。
彼の者の主人が彼の道を指し示すように、その蛇の頭を撫でると嬉しそうに目を細め、そしてハニエル達へと顔を向けた。
その目は獲物を見定めた狩人のように爛々とした狂気が宿っていた。
「おいおい、アスタロトのキスって、おれはあの悪魔にキスされんのか?いくら遊び人と言われ、各国各地域で美女と浮名を流すおれでも、あれはご免こうむりたい」
ウヴァルの言葉にラフィが両肩を抱いて、心底嫌そうに身震いした。
彫の深い顔が更に濃さを増し、その嫌悪感が最たるものだと物語る。
ラフィは縋るように側にいたサリエのマントを引っ張った。
「サリエちゃ~ん、おれの唇の危機だよ。助けてくれよ~。どうせキスするならあの悪魔よりサリエとキスした方が絶対マシだ」
氷の美貌にピシリと亀裂が走る。
目を見張る勢いでラフィの手を打ち払うとサリエは憎悪に満ちた怖ろしい視線でラフィを射殺そうとした。
それはきっと悪魔の瞳以上に強力な力を持っている。
「俺はあの悪魔とキスする方が百倍マシだ。ふざける暇があるなら、捨て身であの悪魔に鞭の一つでも入れて来い」
一睨みされれば、誰もが思わず引き下がってしまう。
だがそんな威力を前に追い込まれた男は違う。
見下されようが、蔑まれようが、引いたりしない。
暑苦しい顔をこれでもかと濃くし、唾を飛ばす勢いで喚いた。
「お前はっ!他人事だと思って!!くそ~もうここはハニーで手を打とうか?」
「ちょっと!!で?でって、どういうこと!」
「なんやて!そんなん認めへんぞ!絶対にアカンッ!」
ラフィとサリエの後ろにいたハニエルとカンザスが一斉に口を開いた。
互いに条件反射のように口を開いたために、お互いが言った言葉は耳に入ってこない。
ただお互いに何かを叫んだことだけは分かったらしく、驚いたように顔を見合せている。
ハニエルはカンザスが何を叫んだのかと不思議そうに首を傾げたが、カンザスは自分で言った言葉を今さらながら理解し、一人真っ赤になった
「どうしたの?カンザス?一緒に怒ってくれたの?あなたって本当にイイ人ねっ!」
そう言ってしどろもどろのカンザスに抱きつき感涙を浮かべる。
なんとカンザスはいい人なのだと言いながら、ラフィを睨みつける。
感情的になって抱き締める手にいらない力が籠る。
「絶対にラフィにはキスしてあげないから!これでも聖女様のキスには寿命一年の価値があるって言われてるのよ!ラフィが死にかけてても絶対にキスしてやらないんだからねっ!」
どうでもいい強がりであるが、今の差し迫った現状でハニエルに的確に突っ込んでやる者は誰もいなかった。
ただサリエが一言、哀れむ様にカンザスに一瞥を送る。
「どうでもいいが、そろそろそいつを離してやれ。図らずも急所をとられて落ちそうだ……」
サリエの言葉にハッとカンザスの方に目をやると、ハニエルの腕に締められてカンザスが泡を吹きそうになっていた。
どうやらハニエルの拳部分が鳩尾に入っていたらしい。
顔を真っ赤にし、白目を向いているが、しかしその表情はどこか恍惚として見えた。
「わっ!ごめんなさい!カンザス」
「だ、大丈夫や、これ、ぐらいで、へたばる、オレちゃう……」
そう強がるが、その目は虚ろだ。
しかし彼とてあの森を超えてきた戦士だ。こんなところでひ弱な王女の絞め技で倒れるほど柔ではない。
ふらつく頭を叱咤し、唇を噛みしめた。そのままハニエルを守るように一歩前に出る。
「オレは自分の目で現状を確かめに来たんや。君が本当に世界を混沌に帰す血に濡れた女王ならば聖域まで連れていかなアカンと思ってた。でもオレは君がそんな人間に見えへんかった。やから、この目で全てを見極め、それで身の振りを考えようと決めてたんやっ!」
「カンザス………」
熱の籠った言葉に胸が熱くなる。
ハニエルは小柄ながらもどっしりと自分を守ろうとするその背を見つめ、目頭を熱くした。
小柄の彼が誰よりも気高く偉大に見える。
やはり人の大きさは身長では測れない。
全て、その中に詰まっている心の大きさなのだ。
「オレの直感は間違ってなかった。君はそんな人間やない。君は……君は誰よりも慈愛に満ちた、天使のような人や!」
耳まで真っ赤にしてそう叫ぶ。
その気恥しさを打ち払うようにカンザスは激しく被りを振ると、手にした剣を構え直した。
剣の切っ先が、キンッと冬の夜のように引き締まった空気のように光る。
そのままカンザスは真っ直ぐに剣の先を向けたウヴァルを睨みつける。
「お前が何者か知らんが、この人を傷つけるのだけは許さんっ!」
「ゴミが……。この俺に楯突こうなど図々しいにも程がある。決めた。お前には誰よりも悲惨な苦しみを与えて殺すとしよう――――……さぁアスタロト、全てを終わらせよう」
陰惨な輝きを帯びた瞳が不敵に微笑んだ。