悪夢の始まり5
涙で濡れた瞳で、自分の頭上を見上げた。
そこで気高い黒が揺れている。
確かめなくともそれが誰なのかハニエルにはすぐに分かった。
ハニエル目がけ打ちおろされた剣をサリエが悠々と受け止めたかと思うと、絶妙なタイミングでその騎士をラフィが飛びあがって蹴り倒す。
後ろに激しく飛ばれた騎士が他の騎士達とぶつかりあい、三人の周りに空間ができた。
軽やかな音を立てて床に着地したラフィが困ったように肩を竦めて、ハニエルを見つめた。
ふわりと柔らかな風と共にラフィがハニエルの頬に触れた。
それだけで身を強張らせている恐怖の氷が溶けていく気がした。
何故だか彼の周りには穏やかな風が満ちている気にされる。
彼は風の精霊に祝福されているのだろうか。
その優しくて、ほっと胸を撫で下ろしたくなる風を纏い、ラフィは彼らしい笑顔を浮かべてハニエルの頭をポンポンと叩く。
「大丈夫か?」
「え、ええ………」
死の恐怖から解放されたハニエルはぎこちなく笑みを返す。
呆然とラフィを見つめていると、不遜な舌打ちが聞こえた。
ハニエルはラフィともどもそちらに顔を向ける。
二人に見つめる先で、サリエが目の前の脅威に心底嫌そうな顔をしながら、一人で幾人もの騎士を薙ぎ倒していた。
「俺の仕事は異端審問で、悪魔祓いなど仕事内容に入っていない。ラフィ、教皇には基本給以外に危険労働手当を請求しろ」
そう言いながら目の前の騎士の顔を薙ぐ。
切り裂かれた騎士の顔が赤に染まり、激しいい血潮を流しながら、すぐ側の別の騎士にぶつかり、二人で床に落ちた。
「あははっ。あの頑固おやじが払うか?」
赤い血に染まってもまだ煌めきを忘れないサリエの剣が闇を切り裂くように輝く。
ポカンとサリエを見つめるハニエルの側で、ラフィがニヤリと笑った。
気障ったらしく髪を掻き上げると、目にも止まらぬ速さで鞭を走らす。
その鞭は闇を電光石火の勢いで駆け、サリエの背後に迫る騎士の足に絡みついた。
頭上高く剣を構えたまま、騎士はバランスを崩してサリエの方に倒れ込む。
紙一重のタイミングでサリエが横に跳ぶと、騎士は向こうからサリエに切りかかっていた仲間と切り合いになっていた。
共に地面に伏した彼らの横にサリエが軽やかに降り立つ。
「払わせる」
くっと意地悪くサリエが口の端を歪ませた。
その凄艶な表情からは追い込まれた者の気配など感じない。
まるでこの空間を支配する為政者のような気高さを以て彼はここにある。
ハニエルはこの状況で笑い声を上げる目の前の男達が信じられなかった。
危機的状況すら自身のフィールドに変える。
これが世界を教え導く皇に見出された者の実力なのだろうか。
普通ならばこれだけの格の違いを見せつけられれば人は敵意すら削がれるものだ。
だが対する騎士らはどれだけ打ち倒してもその身を起こし、無表情のままハニエル達に切りかかってくる。
まるで彼らには痛覚など存在しないかのようだ。
「おい、サリエ。おれは一応急所を外してるが、お前はそんな配慮は一切してないだろ?なのに、奴ら普通に立ち上がってくるぜ?」
またハニエル達を囲み、徐々にその円を縮めていく騎士達を遠い目で見つめながら、ラフィがため息を零す。
話しかけられたサリエは一切ラフィの方を振り向かず、一人で何人もの騎士を吹き飛ばしている。
だが、切っても切っても、まるで泥の池から悪霊が這い出てくるかのように彼らは立ち上がり、剣や槍を構える。
ザンッと騎士の甲冑が鋭く切り捨てられた。
どろっとした汚泥のような赤が闇に散る。
だが切られた騎士は血が流れ出ることを厭うそぶりも見せない。
その騎士をサリエが遠くへ蹴り倒す。音もなく着地すると、ハニエル達の方を振り向き、嫌そうに肩を竦める。
「頭の造りが聖女殿下と同レベルで本能もまともに働かないんだろう、残念ながら……」
「なっ!」
周りから攻めてくる敵にばかり目がいっていたハニエルは、思わぬ方向からの攻撃に声を上ずらせた。
内側からと油断していたものが、まさか自分の陣地で爆発するなど誰が思うだろう。
あまりにハニエルの隙をついた言葉に頭が付いていかない。
「そう願いたいね~」
言葉を詰まらせたハニエルの側で、ラフィが期待できないといった面持ちで大げさに肩を竦めている。
ハニエルは弾かれたようにラフィの方に目をやり、肩を怒らせた。
そんなハニエルにラフィがおどけたように、目を剥いて答えた。
「ちょっと、ラフィまで!」
「まぁまぁ、よかったじゃないか。お仲間が一杯で……」
「足と拳、どっちがお好みかしら」
座った目でじとりとラフィを見据える。
もちろん拳を握ってゴキリッと鳴らすことも忘れない。
その顔に流石にからかい過ぎたと思ったのかラフィが慌てて手を振り、ハニエルのご機嫌を窺うように嘘くさい笑みを作った。
「コラコラ、それはお姫様がする仕草じゃないぜ?え~と……うん、おれらの言いたいのは彼らも元はハニーと同じ頭の造りだったってことで~、まぁ今は彼らの頭は一切機能してないけどね。彼らを動かすのはあそこにいる蛇の親玉だろうな」
悔しげに眉を顰めるとラフィは広間の奥で悠々とこちらを見下ろしているウヴァルとアスタロトを睨みつける。
彼らはラフィの一瞥など一切気にも留めず、面白味もないチェスの試合を観戦しているかのように広間を見下ろしていた。
チェス盤ではたった2つしかない白の騎士が白の女王を守らんとしている。
そこに押し寄せる黒の騎士が白を黒に変えていく。
彼らは敵を切るためにだけに存在し、それ以上でも以下でもない。
感情を失った胡乱な瞳でハニエル達を見据え、淡々と剣を構えてくる。
しかし彼らが忠誠を誓う黒の王は、彼らの活躍など歯牙にもかけず、どうすれば一番白の女王を苦しませてチェックメイトをしてやろうかと、三手先のチェス盤の動きを読んでいる。
騎士達は王の為に命を擲ってチェス盤を駆ける。
彼らを止める術などなかった。
どれだけ圧倒的な力の差で抑えつけても、起き上がってくるのだ。
いかな死の天使といえど、たった二人では身を守るにも限度がある。
しかもハニエルという足手まといを守りながらの攻撃は、命を惜しまずに突っ込んでくる騎士達の攻撃に比べ分が悪すぎる。
ハニエルは何とか活路を見いだせないかと、サリエの背に縋った。
「あ、悪魔の瞳は?あれ使えば?」