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悪夢の始まり2

 ウヴァルは妖艶な笑みを浮かべている。

 その側で全てが歪む。その中心いるのは、ずっと妄信的にウヴァルに仕えていた寡黙な従者だった。

 彼はウヴァルの言葉を聞くやいなや、その姿をグニャリと歪ませた。

 まるで火で鉄が熔けたような異様な姿だった。 

 人が曲がって、空間に広がっていく。

 それはこの世のものとは思えない、身の毛の総毛立つ光景だった。

 息を飲む暇すら与えない。

 一瞬見間違えかとハニエルは目を擦った。

 だが、それは瞬時に姿を変え、次に見た時にはもう人とは言い難い姿にまで様変わりしていた。

 まるで悪夢だ。

 その黒い影は生き物とは思えないほどに傾き、ゆらゆら揺らめく火影のように歪な動きでその姿を変えていく。

 澱んだ広間に息苦しいほどに重い霧が立ち込める。

 それが猛毒であると見た目に分かった。

 緑青のような色をし、シュウシュウとまるで蛇が這うような音を立てて、あっという間に広間を埋め尽くした。

 その間もウヴァルの側でそれは姿を変えていく。

 それは、もうかつての面影を失っていた。

 徐々に形を顕わにするその禍々しい生き物にハニエルの心臓は激しく警鐘を鳴らした。

 体内にある全ての物を吐き出したくなる嫌悪感がすっぱいものと一緒に込み上げてくる。

 眼も鼻も耳も全てがそれらを拒絶している。

 だが目を逸らすことすら敵わない。

 かつてこれほどまでの恐怖があっただろうか。

 これほどまでに心をかき乱され、飲みこもうとする絶望などハニエルは知らなかった。


「あっ……あっ……」

 

 恐怖に引きつる喉から声にならない悲鳴が漏れる。

 今にも崩れ落ちそうなハニエルの体を支えるサリエの腕にも緊張が走った。

 ハニエルを包む腕に力が入る。

 ラフィは真っ直ぐにその変化を見つめていた。

 彼らしくない、柔らかさの欠片もない無表情だった。

 死の天使達の最上級の警戒態勢が、これがこの世における最悪のシナリオであると物語っていた。

 だが目の前の悪夢に釘付けになっているハニエルには預かり知れぬ話であった。

 金色の瞳が見つめる先で霧が晴れていく。

 その場にいるのは、悠々と下々を見下ろし、不敵な笑みを浮かべるウヴァルと、そして―――醜悪な姿の悪魔だった。

 そう悪魔だ。

 その姿を悪魔と呼ばず、何を悪魔と呼べばいいのか。

 あの嘆きの塔の地下で見た醜悪な闇など話にならない。

 死人のように骨に皮が張り付き溶けた生気の欠片もない顔と体躯を持ち、異様に長い腕で巨大な大蛇を握り締めていた。

 地面を踏みしめるのは人のような二本の足ではなく、うねくる巨大な蛇のような艶めかしい1本の尾だ。

 髪は汚泥のようにぬかるんで顔にかかり、その下から落ち窪んだ双眸は妖しく光彩を放っている。

 長い髪の間から三日月のような形の大きな角が二つ伸びていた。

 まるで人の嫌悪感を煽るためにそんな姿をしているとしか思えない。

 そんなこの世でもっとも哀れで、この世でもっとも忌むべき姿をしている。


「紹介するね。俺が地獄から召喚したんだ。名はアスタロト。地獄の大公爵だってさ」


 ウヴァルは玉座の上で嬉しそうに肩を揺らして笑っていた。

 まるでとっておきのおもちゃを自慢げに見せる子どものように無邪気な姿だった。

 あまりにも禍々しく見つめることも厭うほど醜い悪魔と天真爛漫に愛らしく微笑むウヴァル。

 対極にある者同士が、不思議な調和を取って、そこに存在していた。

 重たく圧し掛かる空気にハニエルは今にも肺が押し潰されてしまいそうだが、ウヴァルだけは平気のようだった。

 楽しくて仕方ないらしい。

 ウヴァルは玉座でふんぞり返りながら、鼻歌を歌っている。

 愉悦に喉を鳴らしながら、怯えるハニエルを指さして嘲った。


「あはははっ!ねぇ、ハニー、悪魔はいるんだよ?びっくりした?あの愚かなハールートには呼べなかったけど、俺は違う!これはすべて真実だ」


「そんな悪魔は……」


 ハニエルはサリエに縋りながらも、ウヴァルの言葉を打ち消さんと口を開いた。

 だが、あまりも重苦しい空気にそれ以上何も言えなかった。

 吸い込む度に死臭が肺を黒く染める。

 生物が腐り朽ちるような、じっとりとまろみを帯びた臭気が生気と一緒に生きる希望を奪おうとにじり寄ってくる。

 言葉も紡げないハニエルを満足げに見下ろすと、ウヴァルは優しく微笑みかけた。

 人は自分の足元にも及ばない者に対してどこまでも寛容になれるらしい。


「そうだね、君達の教えでは悪魔は千年も昔、古代の王シモンによって一つの壺に封じられたことになっている。事実、神性を奪われ悪の烙印を押された土着の神々は自らを信仰する者を失い、虚無と呼ばれる死の淵に追い込まれていった。その死の淵で彼らは欲を叶える醜悪な魔物に身をやつした。何者も誰かに必要とされなければ、それは無でしかない。存在し続けるためには、悪意でも自分を利用してくれるものに縋らなければならない。そして理性なき混沌を生みだした嘗ての神々はその神の血を引く王によって封じられた」 


「神性を奪われたものが悪魔……」


「そうだよ。何物も光が強ければ強いほど闇に落ちやすいんだ」


 これは千年前の話だろうか。

 それとも今、ハニエルの目の前で起きている惨劇の隠喩なのだろうか……。

 嬉々と目を輝かせるウヴァルの側で、醜悪な存在が一瞬、痛々しげに目を伏せた。


「さてハニー、よく考えてごらん。千年後の今でも悪魔の存在が囁かれるのは何故だろうか?答えは簡単さ。悪魔は封じられているだけで、この世に呼び出すことができるんだ。そしてその方法を記した書物もある」


 悪魔を呼び出す書物――それはもしかしなくとも『禁忌の書』のことだろうか。

 ハールートが欲しがっていて、でも悪魔を召喚するができなかったとウヴァルは言った。

 ハールートにはできなかったが、ウヴァルには呼び出すことが出来たと言うのか。

 答えを探るハニエルの視線に、ウヴァルはまるで弟王子が、上手に足し算が出来た時に褒めるような声で答える。


「そう。君も知っている『禁忌の書』だ。正式な名で呼ばれることを厭われているからね。『黒の書』や『混沌の坩堝』とも言うかな?そこには古代に失われたこの世の真理と叡智が記されている」


「この世の真理?」


「そうだよ、ハニー。俺はこの国の古代の王について調べていた時に偶然、この書を手に入れた。まさか本物だと思わなかったが、すぐにこれが世界の真理だと知ったよ。そう、古代の神々は生きているんだ、壺と呼ばれる異空間でね。俺はその全てを解放するために、アスタロトと契約を結んだ」


 そう言って、すぐ側で控える醜悪な悪魔に熱い眼差しを投げかける。

 アスタロトと呼ばれた悪魔はまるで人であった時の寡黙な侍従のように、その視線に対して応えた。

 ハニエルのすぐ側でラフィがゴクリと喉を鳴らした。

 その顔には緊張が走り、今の状況が彼にとっても予想外であったことが窺える。


「アスタロト―――。呪術書グリモワールの一つ『小さなレメゲント』の一の書、通称『悪魔のゴエティア』内に記載されている序列第29位の地獄の大公爵か………。まさか、こんなところでお目にかかれるなんてね」

 

 ハニエルはサリエの腕の中から、縋るようにラフィを見上げた。

 その視線に気付いたのか、ラフィがふとハニエルを見下ろし、どこか困ったようにおどけた顔をした。


「まるで福音書や黙示録の世界を直に見ているようだ。本当にこんなものが存在するなんてね……」


「ラフィ………」


 そんな些細な会話など聞こえないのか、悦に入ったウヴァルは嬉々としてアスタロトに命令を下す。

 玉座の上から悠々とハニエル達を見下し、ウヴァルは艶然と笑った。


「アスタロトは俺の願いを叶えてくれる。その代わり、僕はアスタロトに捧げ物をしなければならない。彼らが壺より出でて力を使うには、犠牲が必要なのさ。さあ、アスタロト!あれらを君の好きにしていい。君を信じない奴らにもっと君のことを教えてやれ」


「仰せのままに」

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