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悪魔のような天使2

 ハニエルは懸命に感情の波を落ち着かせ、抑揚のない声で問うた。


「何故…………」


 ラフィはハニエルの問いに少し眉を押し上げて驚いたような顔をすると、自分の顎に手をやり小首を傾げるように捻った。


「よお、悪いな。どうせならいい方で名前を残したい」


 悪びれもない声は快活で、ここが禍々しい悪の巣窟である事実を忘れてしまいそうなほどだった。

 彼の後ろには雄大な草原が広がり、爽快な風が駆け抜けていった気がした。

 だが、ここは閉じられた広間だ。

 身じろぎする以外に空気が震えることはない。


「……エルは……エル、あの子は……」


 ハニエルは努めて冷静を装ったが、エルの名前を呼ぶ自分がひどく焦燥しているのを感じた。

 口の中が渇き、言葉が絡まってうまく名前が呼べない。

 そんなハニエルの動揺すら気付かないらしいラフィは屈託なく笑った。


「ん?心配すんな!あの子は森でお寝んねさ」


 ハニエルはもうその笑顔が信じられなかった。

 あんなにも親しみを感じていた彼の笑みが今は黒く荒んだものに見える。

 始めから裏切るつもりで近付いたのだろうか。

 ならばなんと周到な男なのだろう。

 偶然出会ったように見せかけ、血に濡れた女王など信じないと言ってのけ、ハニエルの信頼を得た。

 すべてはこの瞬間のために―――………。

 ハニエルは目の前の詩人と遠くで冷笑を浮かべながら事態を楽しんでいる黒幕を交互に見つめた。

 ハニエルの視線に気付いたウヴァルが、理解の遅いハニエルを哀れむ様に笑みを浮かべる。


「始めからこういう予定だったんだ。彼が君を連れてくるって。彼は大司教の知り合いでね、もちろん俺に協力してくれた」


 足元が崩れ去るような激震が突き上げるように押し寄せてくる。

 もう自分が上を向いているのか、下を向いているのかすら分からなかった。

 煮えくりかえった腹の内が急激に冷え込む。

 ここまで駆け抜けてこられたのは、僅かにでも希望があると信じていたからだ。

 その希望は深い森の中にあっても潰えることはなく、更に大きさを増した。

 そして、今ここまでたどり着けた。

 なのに……それなのに、ここに来て、全てが泡沫に消えてなくなるなど。

 そんな最悪のシナリオを誰が想像しただろう。

 もうこのゲームはチェックメイト目前だ。

 ハニエルは全ての駒を押さえられ、先の一手も詰んでしまった。

 後は、ウヴァルが嬉々として最後の駒を置き、コールするのをただひたすら待つしかできない。

 残ったのは、この身一つ。

 あの日、この広間から逃げ出した時と同じだ。

 しかしその身も絶望に打ちひしがれている。


(これなら、始めから敵だって顔してる、あのインケン男の方が幾らかマシね………)


 もう涙も出てこない。

 ただただ思い通りにならない未来を恨むしかなかった。


「バカ……………。なんでここぞって時にいないのよ。異端を裁くのがあなたの仕事じゃないの……?」


 微かな独り言は誰の耳にも届かずに、闇に霧散した。

 自分でも馬鹿げたことを言っていると分かっている。

 どれだけ心の中で叫んでもあの男がこの場に来ない。

 それは分かりきったことだ。

 それでも何かに縋りたくて、ただ一縷の希望を託さずにはいられなかった。

 誰でもいい。

 この冷え切った広間から、体温をなくした親友を救ってくれるなら。

 そしてその友人の大切な弟の凍てついた心を溶かしてくれるなら……。

 自分の命は捨ててもいいから、この二人の心を救ってほしい。


「残念だったね。ハニー」


 心底同情するようなウヴァルの声がハニエルを残酷に打ちのめす。

 声に反してハニエルを見つめる目には侮蔑が込められていた。


(ああ……ここはなんて冷たいのかしら……このまま凍りついて、何も考えられなくなってしまいそう………)


 己の細腕だけではどうしようもない巨大な虚無をこれ以上膨らませないように、ハニエルは自分の両手を胸の前で組んだ。

 足から凍りつき、体中に霜が積もっていくような気がした。

 動かない体の中で、唯一ハニエルに動かせるのは、金色の瞳だけ。

 ハニエルは持てる力の全てをその金色に注ぎ、広間の奥にいるウヴァルに訴えかけるよう、真っ直ぐと見つめた。

 祈るにはここはあまりにも暗すぎる。

 窓もなく、天さえ仰げない。

 少しでも弱い自分を自覚すると、暗闇に心が飲み込まれ、全てが終わってしまいそうだ。

 きつく手を組み合わせ、ハニエルは運命に奔流されそうになるのを懸命に耐えた。

 濁流に激しく体を打たれてもただ耐えるしかできない。

 ハニエルの身を支えるものなどここには何一つない。

 ハニエルを見つめるのは、胡乱で冷やかな視線だけ。

 皆、ハニエルを無情の闇に追い込まんとし、ハニエルが諦めて生を手放すのを今か今かと待ち構えている。

 その視線を全て打ち消すように固く瞳を瞑った。

 だが視界を閉じても、肌を刺すような殺意は消えさらない。

 鼻腔に纏わりつく腐臭は濃くなるばかりだ。

 瞑った眼から何かを悟った涙がつっと流れた。

 清浄な雫が歪んだ広間の床に音もなく吸い込まれていく。

 静寂の空間に微かな水音が弾けた。


「………そうだな、あまりに残念だ。この悲劇はあまりに陳腐すぎる」


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