廃墟の天使3
サリエと名乗った美貌の異端審問官。
クワインというのは、ウォルセレンとアンダルシアの境に位置する要塞都市の名だ。
神の子ユーティリアが少年時代を過ごし、布教を始めた最初の地でもある。
それ故聖域も一目置いており、一都市とは思えないほどの権力を持っている。
サリエはそのクワイン出身の司教だという。
そのエリートコースのような経歴すら腹立たしく感じるのは、ハニーの心が狭いせいだろうか。
さっきまでのハニーなら「口じゃいくらでも言えるわね!」などと嫌味には嫌味で返していただろう。だが、今は元来の強気も湧いてこない。
鋭い黒曜石の輝きがハニーの全てを見透かし、貫き、破滅させんと突き刺さる。
人の視線をここまで怖いと感じたことはなかった。
何十人という騎士団より一人の異端審問官がこんなにも怖いなんて。
時が一瞬にして凍りつく。
その中、ひたりと頬を伝う冷や汗に時の流れを感じた。
(わたしはどうなるのだろう……)
不意に湧きおこった不安に華奢な肩を引きつらせ、ハニーは縋るように側の少年を抱き締め直した。
少年はただハニーにされるがまま、ぼんやりとした面持ちで目の前の騎士達を見ていた。
ただハニーに抱き締められるのが嫌ではないのか、ハニーに強く抱き締められる度に円らな瞳をくすぐったそうに細める。
普通ならばなんと微笑ましい光景か。ただ、この場でなければ……。
「子どもを盾にするなど、どこまでも無情な女だ!」
不安と恐怖に身をすくませるハニーにカイリは厳しい眼を向け、吠えた。
正義感の強い彼には我慢のならない状況だったのだろう。
小さくうずくまり少年に縋っている。だがそれはハニーの内面だけの話だ。
外から見れば血に染まった鬼気迫る女がいたいげな子どもを人質にとっているようにしか見えない。
しかも力いっぱいに抱き締め、その姿は少年に纏わりつき締め付ける蛇のよう。
カイリの発言は至極まっとうなことだ。
自分たちが追っている女王の側に年端もいかぬ子どもがおり、しかも逃げ出せないように捕えられているとなれば、何としてでも助け出そうとするのが人の道だ。
この広間で相対して、今まで一度も少年に触れてこないサリエの方がよっぽど人としておかしいのだ。
(この子にとってはいい誤解ね。隙をついてこの子をあっちに押しやればこの状況から助けてあげられるかも……)
自分にとって更に不利な状況であるが、ハニーは心の底から安心した。
騎士達に気付かれないように、小さく安堵の息をつく。
ずっとこの少年のことだけが気がかりだったのだ。
ハニーは力の限りここから逃げ出さなければならない。そしてこの先は更に危険になる。もしかすれば、皮膚が裂け、手をもぎ取られることもあるかもしれない。
そんな凄惨な場にこの少年を居合わせるのは彼女の望むことではないのだ。
自分の所為で少年の命まで危険に晒す訳にはいかない。
緊張で渇いた喉を鳴らした。飲もうにも全てが干からび、唾すら出てこない。でも金色の瞳は希望を失っていない。
褪せた光の中、ハニーの瞳が鮮烈な輝きを放つ。
「お前は完全に包囲されている。大人しく子どもを離し、投降しろ!!」
カイリは一歩踏み出すと、荒々しく息を吐くと腰を落とした。怒声で決まり文句を吐き出すと、びしっとハニーに向けて大剣の切っ先を向けてくる。
ハニーはそのベタな活劇にハニーは乗ることとした。この単純な騎士団長を騙すことなど幼子をあやすことより簡単だろう。
問題はサリエだが、今は彼に拘っている場合じゃない。
今ハニーが持っている武器はその身一つ。
その頭で考え、行動しなければ何も始まらない。
ハニーは大きく息を吸うとゆっくりと少年から手を離した。そして大げさに被りを振って、気だるげに立ちあがる。
その瞬間、噛みつかれた部分が引きつって激痛が走ったが、ぐっと我慢し、相手に気取られないように声を噛み殺した。
怪我をしているのは見て分かるだろうが、まだ塞がってもいない生々しい傷だと知れば、ここを中心に狙ってくるだろう。
事実ハニーはその部分に息を吹きかけられるだけで狂ったように痛みに悶えてしまいそうだ。
ほつれた髪を更に乱れさせ、皆が恐れ慄くブラッディー・クイーンを演じる。
ハニーは下を向いたまま、騎士団と距離を測るように大きく一歩踏み出し、少年から離れた。傷ついた影が小さな少年の足元を離れた。
少年が下からハニーを見上げる。まるで親鳥の背を追う雛鳥のような弱々しく縋りつく視線に気付かぬ振りをして、ハニーは白い床の罅割れを見据えた。
今彼の目を見たら、ハニーも同じ顔になってしまいそうな気がしたのだ。
「そうだ。まずはその子を離せ!全てはそれからだ」
カイリが叫ぶ。
赤い髪が蔦のようにハニーの視界を覆っている。その僅かな隙間から見えるのは、険しい顔を更に険しくしているカイリだ。
そしてその横ではサリエが無表情のまま自分の薄い唇をなぞって、事態を静観している。
その存在が、彼の意図が気になって仕方ない。
でも……。
(今はこの子を助けなきゃ)
よろけるように一歩づつ少年から離れる。少年は離れていくハニーとその影を必死に目で追っていく。床に映ったそんな薄い存在には、温かさなど一切存在していない。
それどころか似ているのは形だけ、そこにはハニーの気配も一握の城すら存在しない。
だが彼はそれすらも名残惜しいと言わんばかりに瞳を揺らしている。
ハニーの胸の中で見えない傷が疼いた。大きな瞳はまるで捨てられた子犬のように哀愁に染まっていて、今にも大粒の涙を零しそうだ。
年端もいかない子どもだ。いきなり現れた騎士団に不安を感じずにはいられないのだろう。厳めしい男よりも、どんな襤褸切れを纏っていても女のハニーの方が心安い存在なのだ。
(大丈夫よ、だから、今は全てを任せて)
ハニーは少年を元気づけようと金色の瞳を少し和らげた。騎士団達に気付かれないように小さく囁く。
あまりにも小さくてすぐに空気に霧散してしまったが、きっと少年の耳には届いただろう。
また一歩、大層なほどにゆっくりと大げさに後ろへと足を進める。
血と泥に汚れた赤い髪を振り乱し、血の気のない青白い肌に血を被り、すでに襤褸切れと化した白色のドレスをはためかせる。
腹の底から不安にかられるような鬼気迫る姿に広間にいる騎士達が一様に息を飲んだ。
彼らの目の前にいるのは、彼らが思い描いた血に濡れた女王と寸分違わぬ姿だった。
やはりこの者こそが世界に仇をなす魔女なのだと、今さらながら痛感してその身を震わせる。
そう―――その姿こそ血に濡れた女王。
エクロ=カナンを地獄へと変え、それでもまだ飽き足らず世界を混沌に帰そうとする諸悪の根源。
畏怖と侮蔑が込められて注がれる眼差しをハニーは毅然と受け止めた。
どんな視線で貶められても彼女は高潔だった。
どんな言葉で辱められても彼女は優美だった。
どんな武器で追い詰められても彼女はけして怯まない。
どんな劣勢であれ、逃げださないと決めた。そしてどんな時でも自分らしくあろうと………。
「ふんっ。どう足掻いても逃げられないようね。なら、足手まといの子どもは置いていくしかない」