悪魔の正体1
その瞬間、ハニエルは優しい友人に代わり血に濡れた女王の道を歩むことを決めたのだ。
血に濡れた女王が死んでしまったら、歪んだ事実が真実になってしまう。
造られた真実を完結させないために、本当の真実を皆に伝えるために。
ハニエルはあえて茨が敷き詰められた荒野を歩む決意を固めた。
「エルはみんなが大好きだったのに!」
血で滲む叫びを何度上げたことか。
誰も聞き入れない孤独な咆哮だった。
だがそれがハニエルを突き動かす全てだった。
天使のように無償の愛に満ちたレモリー。
その鏡越しの悪魔となって彼女は決死の逃走を図ったのだ。
そう。あの日、この広間から……。なのに………………。
「なのに…………なんでウヴァル、あなたが……」
ハニエルは震えるように声を絞り出した。
魔法は解けた。
もうハニエルの顔にあるのは血に濡れた女王の仮面ではない。
そこにいるのは形骸化した聖女でも仮初の女王でもなく、ただの親友思いの乙女だった。
小さな口は驚愕に震え、ただただ眼の前に広がる悪夢の光景を見つめる。
その恐怖に凍りついた表情をウヴァルが楽しげに見つめた。
どこかあどけない顔に艶やかな微笑みを浮かべる彼はとても扇情的だった。
もしかすると、あの異端審問官以上に美しいのではないだろうか。
言葉を失ったハニエルを哀れむようにウヴァルは、ふっと頬を緩ませると仰々しく手を広げた。
「ハニー、君はなんて愚かなんだ」
ウヴァルは広間の奥、数段高くなっているそこに置かれた玉座に腰を下ろし、ハニエルを見下げるように冷やかな青銀の瞳を眇めた。
胸を逸らし、乱雑に足を組んでいる姿は緻密で硬質な彼らしくなく、傲慢で欲深く見える。
「君はいつもなんにでも首を突っ込む。昔からそうだ。そして一人で大騒ぎして、結果姉さんを困らせる………でも、姉さんは優しいから君のことを煩わしいと思っていても、けして口に出して言わない。そして君はいつもその優しさに甘えていたんだ」
幼い頃を思い出しているのか、ウヴァルは一瞬嫌そうに眉を寄せた。
この隣国の王女が遊びに来るといつも大好きな姉を独り占めしてしまう。
姉も満更ではないのか、この溌剌とした異国の王女に甘い顔ばかりするのだ。
彼はそれが嫌で仕方なかった。
それと同じく、ハニエルも自分と同じような歳のウヴァルがいつも大好きな親友の背にくっついてくるのが気に入らなかった。
レモリーが冗談半分に二人が結婚すれば私は二人とずっと一緒にいれるのに、と言った時もとても魅力的な申し出に思えたが、相手がウヴァルなので丁重に断ったほどだ。
それならキアスの方がまだましだと言ってレモリーを苦笑させた。
いつまでも姉の背を追っている、腑抜けた男なんて冗談じゃない。
それがハニエルの、ウヴァルに対する感情だった。
大好きなレモリーを奪おうとするやっかみも交じっていたのかもしれない。
優しく、穏やかな月の女王を取り合ってきた二人は今、その女王を挟んで対峙していた。
一歩広間に足を踏み入れたハニエルは、全力でウヴァルにぶつかっていった。
「何で……何があったのよ、ウヴァル!!エルを一番愛しているあなたが何故、エルをここまで追い込むようなことを!」
涙の溢れる金の瞳で白銀の少年を睨みつける。
暗い空間に浮かぶ蝋燭の炎はあまりにも頼りなく、壁に映る影すらハニエルを飲みこもうとしているように思えた。
ここはもうウヴァルの領域だった。
ハニエルの知っている世界ではない、異世界。
ハニエルの激昂を抑え込むように、ウヴァルは乱れのない声でハニエルを制した。
静かで、そして殺意に満ちた声だった。
「エルと呼ぶな!そんなお前の名前から分かれた名など、お前らの神から派生した名前など、姉さんに相応しくない」
「え……ウヴァル?」
ハニエルにはウヴァルが言いたいことが何一つ分からなかった。
ただ分かるのは、そこにいる男がハニエルの知っているウヴァルではないことだけ。
玉座に堂々と腰掛ける年若い王は、永遠の氷海に沈んだ沈没船の主のようであった。
声すら熱を失い、だが凍てつく気配は全てを焼きつくそうとしている。
「レモリー・カナン―――この地をかつて気高い館の神が治めていた時代、神より野蛮な侵略者を討つ使命を受けた初代エクロ=カナンの女王の名前だ」