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悪魔が生まれた時6

 ハニエルは長い回廊を駆けた。ゼル離宮の一の間である奥の広間を目指し、ただただ、レモリー・カナンを救うことだけを考えていた。

 ゼル離宮まで辿り着いたハニエルは、ロロンを城の外で待機させ、引き止める侍女や騎士の手を払いのけ、無理やり城に押し入った。

 その広間で今現に行われようとしているのが、戴冠の儀だろうが、悪魔審判だろうが、知ったことではなかった。

 レモリーの為ならば、どんなこともする気概だった。

 ハニエルの前に重厚な運命の扉が待ち受けていた。

 ハニエルは両手でその扉を開け放った。


(待っていて、エル!)


 だが、そんなハニエルの思いはすぐに打ち砕かれた。

 扉を開け放ったまま、ハニエルは呆然と広間の中心を見つめた。

 広い広間は幾つもの燭台に照らされ、ぼんやりと明るかった。

 その部屋の中心に設えた大きく丸い燭台シャンデリアが部屋に幾重もの光と影を投げかけている。

 ハニエルが扉を押しあけた風圧で、シャンデリアの火が儚げに揺れる。

 そして明かりを受ける人々の顔の陰影を変えた。

 だがそんな周りの風景など一切ハニエルの瞳には映らなかった。

 驚愕に見開かれた金色の瞳が見つめるのは、部屋の中心に立つ白いドレスに身を包んだ一人の乙女だった。

 誰よりもその乙女を知っていると思っていた。

 しかしそこにあるのは、穏やかな微笑みではない。

 煌めくシャンデリアの下、悲しみに染まった青銀の瞳が狂気に輝く。

 扉の前に立ちすくんだまま、ハニエルはもう何も考えられなかった。

 一体、自分の目の前で今、何が起きているのだろう。

 これが戴冠の儀なのか。これが枢機卿による審判なのか。

 そのどれでもない。これは悪趣味な兎狩りゲームだ。

 一人のいたいけな乙女を何人もの男が追いこんでいる。

 聖職者という名前の似合わない権力を振りかざし、男たちはその力が発揮する威力に酔っているのだろう。

 汚く、ドロドロした権力の極み――それはその世界ではありふれた狩猟ゲームだったのだろう。

 だが、その場に流れていたのはお遊びのような軽い空気ではなかった。

 広間の中心を囲むように派手な色遣いの司教服の男達が壁に身を預け、顔を恐怖に引き攣らせている。

 張りつめた空気は身じろぎ一つ許さず、息を吸うことすら罪深き行為に思えるほどの沈黙が場を支配していた。

 そう―――狩猟者達は狩る獲物を間違えたのだ。

 彼らの目の前にいたのは、か弱い兎ではない。

 そう、誰にも貶められない孤高の天使―――。

 天使は自らの高潔さを投げうち、血の滲んだ声で叫んだ。


「……我は悪魔の女王っ!人ごときが裁くなど愚劣の極み。神を以てしてもこの血を贖うことはできまいっ!」


 ドレスの裾をはためかせ、その天使は隠し持っていた剣を天に向かって突き立てた。

 シャンデリアの光を受け、切っ先が鋭利に輝く。

 それはかつて冴えいる月の女王と呼ばれた乙女の最後の足掻きだった。

 常の穏やかさなど一切感じさせない、冷やかな切れ長の青銀の瞳が広間をくまなく見渡す。

 その瞳が扉の方に向いた瞬間、少しだけ柔らかく微笑んだ。


「………ごめんなさい、ハニー……。貴女をこんな茶番に付き合せたくなかった。出来るならこんな姿、貴女に見せたくなかった……」


 青銀の瞳は泣いているか。

 沈痛の面持ちで秀麗な顔が曇る。

 天に突き上げた剣が小刻みに震える。

 だがその圧倒的な姿に魅せられ、誰も身じろぎできなかった。

 この自ら輝く気高い者を誰が悪魔と呼ぶのだろう。

 この意志高く剣を突き上げる姿を誰が心を壊死したというのだろう。

 そこにいるのは悪魔などではない。

 紛れもないこの国を光に導く女王レモリー・カナンだ。


「何言ってるの!エル!何があってもわたしはあなたを…………」


 咄嗟に扉を離し、ハニエルは広間に一歩踏み出した。

 しかし、そのハニエルの足を留めるようにレモリーは握りしめた剣をハニエルの方に向けた。

 静寂の間にキンッと雪の結晶が触れ合うような微かな音が響いた。

 驚くハニエルの顔を見つめ、青銀の瞳が悲しげに揺れる。


「エ、エル……?」


 その拒絶の意味が分からず、ハニエルは足を止めた。

 不安に満ちた目で縋るようにレモリーを見つめる。

 その視線を真っ直ぐに受け止め、レモリーは儚げな笑みを浮かべた。

 それはまるで最後の挨拶をしているかのように優

美で、そして痛々しい笑みだった。


「ありがとう。ハニー……。貴女がいてくれるから、私は心置きなく堕ちるところまで堕ちれるのよ………」


 そう言うが早いかレモリーはその場にいる者全てを悪魔の生贄にささげんとばかり切っ先を躍らせ、構え直した。

 カチン―ッと硬質な音が宙に響く。

 それは運命の鐘の音。もう誰もこの狂気からは逃れられない。

 妖しく歪んで尚美しい顔が流麗な笑みを浮かべた。


「……愚かで哀れな者達よ―――………この私に、そして私の全てに手を出したこと、後悔するがいい。其は万死に値するっ!」


 掲げられた鋭い切っ先が深い闇を切り裂かんと咆哮を上げた。

 それは止める間のない出来事だった。

 ごめんね、と消えそうな声がハニエルの耳朶にくっきりと響いた。


「やめてぇえぇぇえぇぇえぇええええぇぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇ」


 悲痛なハニエルの叫びなど届く間もない。

 まるで祈るように天を仰ぎ、レモリーは自らの胸に剣を突き立てた。

 自らを貫く鈍い音と共に、儚く勇敢な女王が床に落ちていく。

 捕われて、聖域の思い通りに殺されるのだけは阻止したい。

 それはレモリーの、一国の女王としての誇りが選ばせた終焉だった。

 そう聞けば誰も納得しただろう。

 こうして第十七代のレモリー・カナンは造られた歴史の闇に葬り去られ、全て真実は闇の中へ埋没し、二度と光の届かぬ場所に堕ちることとなった。

 後に語り継がれるのは、女王の聞くも悲惨な所業と聖域の威光だけ。

 だがハニエルはどんなに美しく着飾った言葉で言い含められても目の前にある現実を受け入れることはできなかった。

 ハニエルの目の前で、後に語り継がれる歴史物語のページがゆっくりと閉じていく。

 咄嗟に、閉じさせてはいけないとハニエルは手を伸ばした。

 そのまま広がる血だまりを駆け、愛しいレモリーの元に駆けだす。

 僅かにでも希望があるなら縋りつかずにはいられなかった。

 間に合うのであれば、自分の血を全てレモリーに与えてもいい。

 だが思いに反してレモリーは、ハニエルの祈りに反してその腕の中で冷たくなっていく。

 誰もレモリーを助けようとしない。

 ただ冷たい視線でハニエルとレモリーを見つめているだけ。


「あれは悪魔だ。女王の体から抜け出した真の悪魔だ。よく見ろ、あの赤い髪、金色の瞳……あれが悪魔でなく、なんだというのだ!」


 誰かがハニエルを悪魔と罵った。

 その声に弾かれて、側にいた枢機卿らの顔色が変わった。

 怯えた表情に、侮蔑が滲む。

 彼らの目には、彼らの見たい現実だけが映っていた。

 己らの所為で、一国の女王が自害したなどあってはならないこと。

 その現実に蓋をし、彼らは歪んだ妄想をそこに描いた。

 こんな情のない者が聖域の指導者だというのか。

 今までハニエルが信じていたものが音を立てて壊れていく。


「そうだ……悪魔の所為で女王は死んだ……あれは女王を隠れ蓑にし、我々に災いを齎す悪魔だ」


 それを遠くに聞きながら、ハニエルは血の涙を流した。

 静かにレモリーの身をその場に横たえられ、ハニエルはゆっくりと立ち上がる。

 俯いたままハニエルはガンガンと脳髄を叩く鼓動の奥に浮かんだ思考を掬いあげようとした。

 今、あの男はハニエルを何と呼んだ。

 聞き間違えで無ければ『血に濡れた女王』と呼んだはずだ。


(そうだ。わたしはエルの鏡だ。彼女が天使として無情の死を遂げたのなら、鏡越しの私はどうするのだ)


 血に濡れた女王は血のように赤い髪と狂気に輝く金色の瞳をしているという。

 ならば答えは一つだ。

 その時、ハニエルの運命は決まった。


「血で染まった悪魔………。それで上々よ」


 自分を遠巻きにする人々を見渡し、ハニエルは怒りに満ちた瞳を燃え上がらせた。

 金色の瞳から血の涙が流れた。

 血で真っ赤に染まった髪が風もないのに逆立ち、靡く。

 その瞬間、ハニエルは変わった。

 燦然と輝く王冠はすでに朽ち、玉座の前に広がるのは先の見えない荒野のみだ。

 それでもハニエルは血に染められた荒野に毅然と足を踏み出した。

 待ちうけるのは棘の道―――――一度踏み入ればけして引きかえることのできない、深く険しい受難の道だ。

 その痛みさえも甘んじて受け入れる覚悟が金色に輝く瞳に宿っていた。

 一際通る、朗として力強い声が血染めの広間に響いた。


「この身が血で染まろうと腕が捥げようと構わない。我こそは血に濡れた女王!この思い果たす為なら悪魔とだって契約しよう!」


 

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