悪魔が生まれた時4
ハニエルは心配する侍女らに体調が悪いと言って部屋から遠ざけ、自室をぐるぐると回りながら、自分がどうするべきか考えた。
ハニエルの知っているエクロ=カナンの受難はこうだ。
謎の伝染病が寒村を中心に猛威を振るっており、その原因を元々『血に濡れた女王』とやっかみ半分に呼ばれていた女王に押し付け、何も知らない者が勝手気ままに噂を流している。
その噂が一人歩きし、最近ハニエルがウォルセレン王都マリーレザーで耳にした際は『女王が世界を混沌に帰そうとしている』などとトンデモない規模の大きさを誇る話になっていた。
こうやってレモリーは清楚な女王から醜悪な悪魔に仕立て上げられていた。
しかし所詮は噂だ。
原因の伝染病が鎮まれば、自ずと噂は風化するはずだ。
そう思い、ハニエル自身も独自に医師らに伝染病の特徴を伝え、対処法を探ったりもしていた。
秘密裏にレモリーと交わす文の中では、病も沈静化している様子だと書かれていた。
なのに……なのに、何故ここに来て、レモリー・カナンが譲位をするというのだ。
ハニエルはもう何十回目の輪を描きながら、思考の波でもがいていた。
その足が不意に止まる。
視線を上げたハニエルの前に描かれていたのは、部屋に掲げられたタペストリーの中心にある金糸で縫われた十字の星だった。
それは『マリス・ステラ』の象徴だ。
ロイヤル・ブルーと呼ばれる青の中に白の大輪の花が描かれ、その中心に十字の星が煌めく。
海から生まれた星――そのままアンダルシア風の発音で表すと『マリス・ステラ』。それは古の昔、ウォルセレン王を闇から導いた乙女の名であるという。
自分のことだが、ハニエルはいつも他人のことのようにマリス・ステラと呼ばれて返事をしていた。
自分と聖女様は別人であると幼い頃から感じていた。
聖女という役割がどうも自分には合わなくて、その名前で呼ばれるとこそばゆくなってしまうのだ。
だからといって、別にマリス・ステラを蔑ろにしている訳ではない。
歴代のマリス・ステラの名に恥じぬように、その名前の神聖さを守らないといけないと人並みには努力している。
マリス・ステラはハニエルにとってまるで双子の片割れのような名前だった。
生まれてからずっと付き合っている名前だ。
形式的で格式ばったその聖女という名称に辟易しても、マリス・ステラという名前を嫌いにはなれなかった。
(マリス・ステラさんも大変ね。なんだかんだと、期待されちゃってさ)
そんな風に同情したりもしていた。
だが、それは全てハニエルの感覚だ。
世間はハニエルが思うように二つの名前を分けて考えない。
ハニエルを『ただのハニエル』ではなく、『聖女マリス・ステラ』として見る。
そして歴代の聖女と同じ振舞いや気品を求めるのだ。
形骸化した聖女を一挙手一動間違えずに演じ切ること。
それがハニエルの役目だった。
ハニエルがどれだけ自由奔放で自己中心的な人間であっても、役目を果たすことのみを求められる。
ウォルセレン城におけるハニエルは空虚な存在だった。
それは父王が『マリス・ステラ』に対する扱いを徹底していたからだろう。
ハニエルは生まれてすぐに、王城の端に立つ祈りの塔に移された。
その時からそこがハニエルの住まいだ。
家族と離れ、高い塔で暮らすハニエルは全ての者から遠ざけられていた。
誰にも『マリス・ステラ』だと名乗ることを禁じられ、家族以外の誰とも言葉を交わすことを許されない。
求められるのは、定刻にベールで顔を隠して塔の窓から国民に手を振ることのみ。
後は粛々と聖女としての品性を磨くことだ。
しかし、そこはハニエルだ。
禁忌など破るためにあるのだと言って憚らない彼女は、侍女らの目を掻い潜って塔から抜け出すと、正々堂々と城の外を闊歩し城下の民と言葉を交わす。
結果、ハニエルは『マリス・ステラ』ではなく、王の隠し子だと思われ、城下の者に温かく受け入れられている。
そんなハニエルを父王は見て見ぬ振りして、ハニエルが出歩くのを黙認している。
そこが父王のよく分からないところだ。
どうも出歩くのがハニエルならば問題ないようだ。
まぁ、ハニエルの兄曰く、父王は『史上最強の腹黒狸』らしい。
一見好印象を抱かせるタレ目と恰幅のよい腹で相手を和ませ、しかしその腹の中には猛毒を隠している。
父王はハニエルを目に入れても痛くない可愛がりようで甘やかす。
だが反対に抜け目なくハニエルを利用する汚さも持ち合わせている。
世間に晒さないくせに、聖女マリス・ステラの箔付けに余念がない。
それがウォルセレンの国益になると踏んでいるのだろう。
そんな政治的駆引きに長けた父王が、不利益なるのを分かっていてハニエルが隣国のゴタゴタに巻き込まれることを是とする訳がない。
ハニエルは溌剌とした美貌を歪ませた。
父に頼らないなら誰を頼る。
一番上の兄か?
初めてエクロ=カナンを訪れた時のように彼を唆すか?
しかし大人になった彼が簡単にハニエルの言葉に従ってくれるとは思えない。
それに彼は城を離れ暮らしている。
他の兄弟たちの顔を思い浮かべながら、ハニエルは一人づつ消去していった。
結局ハニエルを覗き、9人いるはずの全員が消え失せた。
もう誰も残っていない。ならどうする。
ハニエルは焦っていた。
ウォルセレン王都マリーレザーからエクロ=カナン王都ベルゼルまでは馬車を飛ばして2日半はかかる。
戴冠の儀とやらの前にどうしてもレモリーに、そしてウヴァルに会わなくてはならない。
ハニエルの残された時間は後僅かだ。
「ここは自力で切り抜けるしかない」
真っ直ぐに前を見据え、ハニエルは静かにそう言った。
そうと決まれば早いものだ。
ハニエルはすぐさま旅支度を整えると、誰にも気付かれないように塔から抜け出した。
目指すは、彼女を慕う馬丁の元だ。
彼はもう夢の中だろうか。
それでも馬車を用意してもらわないと困る。
この結果が、哀れな馬丁を不幸に追い込むのは分かっていた。
それでもハニエルには彼を巻き込む以外の術はなかった。
「ごめん。ロロン。恨みは全てわたしが引き受けるから……」
彼女の言葉に何の疑問も抱かない馬丁は襤褸の馬車を用意して一緒にエクロ=カナンまで行ってくれることになった。
襤褸の馬車に藁と共に乗り込んだハニエルは涙を耐えながら、謝り続けた。
哀れな馬丁にせめてもの罪滅ぼしで、ウォルセレン王家の紋章を頂いた短刀を与えた。
この世界でこの紋章に逆らえる者はいないはずだ。
この時のハニエルはその世界の常識を信じて疑わなかった。
レモリーを助けだすつもりだった。
レモリーを無理やりにでも連れ去って、もし本当に心を失うほどに苦しんでいるなら、そのままどこか遠くでひっそりと二人で暮らしてもいいと思っていた。
だが道々にハニエルが聞いた噂は、ハニエルの知っている物とはまったく違っていた。
食料を分けてもらうために立ち寄ったウォルセレンの端のある村では、しきりに『悪魔審判』の話がされていた。