廃墟の天使2
カイリの野太い声は暴風のように狭い広間に響いた。その大音量にハニーも騎士団の者さえもビクリと肩を竦ませた。
彼はその見た目同様に豪胆な人物であるらしい。きっと幾度の死線を越えてきた本物の戦士なのだ。
その覇気にハニーが堪えられる訳がない。
「…そんなにがならなくてもいいだろう。見た目はあれでも一応か弱い乙女。それに………レモリー・カナンは一国の王だ。たとえ地に落ちていたとしても………」
雪崩れこんだ騎士団を冷めた眼つきで見つめていた隻眼の異端審問官が熱くなった騎士団長を諌めるように鷹揚と口を開いた。
カイリの言葉を諌めているようで、彼の言葉ほどハニーを侮辱しているものはない。
事実、からかうような笑みを浮かべて冷酷な瞳をハニーへと向けてくる。
(ば、馬鹿にして~!!いちいち言い方が厭味ったらしいのよ!)
異端審問官の言葉に腸が煮え繰り返る思いだった。
冷え切っていたはずの体にかっと火が点いた。
今ハニーの指先が震えるのはカイリに怯えているからではない。単純に異端審問官の発言への怒りにかられてだ。
負けじと射るように彼らを睨んだ。
カイリはその強い瞳に少したじろいだ様に眉を寄せた。
その横で異端審問官は好戦的な眼でハニーを見つめ返し、口元を綻ばせる。
大輪の花びらを広げ咲き誇る氷の華のように冷やかで、眼を奪われるほどに圧倒的な魅力を湛えた笑みだった。
あまりの美しさに一瞬息に詰まった。どこまでも冷徹で凍てつくようにハニーの心に突き刺さる。
彼の瞳は側にいる少年と同様にハニーの心をかき乱す。
鼓動が大きく跳ねた。
「こんな朽ちた神殿に逃げるなんて悪魔の女王様も困った時は神頼みか。………まあ神は神でも邪神だがな」
小馬鹿にしたように異端審問官が嗤った。
穏やかで澄んだ声だが、敵意を含んで一番ハニーの弱い部分を探り当てて突き刺さる。
その度に胸の内にいる小さなハニーが不条理な傷を負う。
何故、身も心ももうボロボロなのに、まだこんな男に貶められなければならないのか。
そう思うと無性に腹立たしい。
色褪せない金色の瞳が異端審問官を睨みつけた。
ハニーはぐらぐらと湧き上がる怒りを腹の奥に抑え込み、声を押し殺して答えた。
「――何にだって祈るわよ。この状況を打開できるならね」
「そうか。では、来世は人でなく蛆にでも生まれ変われるよう祈るんだな。そうすれば頂から奈落へ転落する人生を歩まなくて済む」
「余計なお世話よ!」
淡々と返された悪意に思わず押し殺した怒りがこみ上げ、ハニーは激昂した。
この場で感情を荒げることは自分の退路を断つことと同義だ。
分かってはいる。分かっているが、人の一番腹立つ部分を寸分の狂いもなく攻撃してくる目の前の男に一言叫ばずにはいられなかった。
こんなに見た目も中身も全てが気に食わなく腹立たしい存在になど出会ったことがない。
嫌味の応酬をしている暇などないのに、ハニーはどうやってこの男に口で勝つかを懸命に考えていた。
「なんと凶悪な奴だ!この期に及んでまだ敵意を剥き出しに睨みつけてくるとは!」
カイリはハニーを凶暴な野生動物であるかのような目で見つめてくる。
「て、敵ながら天晴れだっ!」
訳の分からないことを呟き、おおっと息を飲んでいる。
その行動はいちいち大げさで、三文芝居を見せられている気にさせられるが本人は至って真面目である。
見た目同様豪胆で、見た目通り頭の中も筋肉で出来ているのか、シーリエント聖十字騎士団の団長は驚くほど単純な性格らしい。
ハニーの纏うただならぬ空気に簡単に感化されている。
そんなカイリに冷たい一瞥を向け、心底見下した顔で――しかし声は淡々と諌めるように異端審問官が口を挟んだ。
「いや、先を考えないで叫んだだけだろ。きっと……本当に莫迦なんだろうな」
途切れた言葉の先で心底哀れんだ声がハニーを更に激昂させる。
面と向かって、しかも馬鹿などと直接的な言葉で罵倒されたことのない彼女は膨れ上がった怒りに顔色を変えた。
「なっ!なんですって!」
しかしハニーが怒りを爆発させる前に一際大きな声が広間に響いた。
「おお、流石は司教殿!限られた者しか『黒衣に赤の花十字』は許されていないという。やはり選ばれた方は違うな~。このような状況にあっても冷静でいらっしゃる。私なぞは大きな敵を前に武者震いが止まらない」
緊迫した空気の中、がははっと快活な笑い声を上げたカイリは痩身の異端審問官の背を力任せにバンバン叩く。
あまりの力強さに痩身の異端審問官がよろめいた。あまりに勢いよく叩かれたのだろう。盛大に咽せ返っている。
カイリは彼の行動に不思議そうに首を傾げた。何故咽ているのか見当もつかないようだ。
カイリ以外のシーリエント騎士団の者は無表情のまま、華奢な体躯の黒衣の司教を哀れんだ。
誰も口にしないが、彼らの敬愛する団長は誰よりも力強く誰よりも正義に溢れ、その上その重すぎる優しさを一切加減しないのだ。
国では英雄と讃えられているシーリエントの騎士団長を虫けらのように睨めつけ、美貌の異端審問官は忌々しげに舌打ちした。
「空気が読めない、力任せの愚か者が……」
吐き捨てるように言い捨てられた異端審問官の声はあまりに小さく、当のカイリには届かなかった。
カイリはやっと息が落ち着いた異端審問官を待って、疑問を口にする。
「ところで……何故聖域の司教殿がこんなところに?花十字を背負っていらっしゃるということはこの凶悪な女を狩るために馳せ参じられたとお見受けしますが、まさかお一人でブラッディー・レモリーを追っていらっしゃったのか?」
カイリの興味がハニーから離れ、美貌の異端審問官に移った。
確かに彼の存在は異端だ。
普通教会の司教が聖十字騎士団に加わっても戦線に下ることはない。
カイリの疑問は至極真っ当なものだ。ハニー自身も彼が死の天使だと聞いた今、何故ここにいるのか不思議でならない。
教会の司教という立場だけでも誰もがその地位に跪く。それが聖域に属し、しかも教皇直属ともなれば、その地位は王侯貴族と肩を並べるだろう。
彼が一言命令すれば手足のように使える使徒はいくらでもいるはず。
審判や処刑を行うことが彼の仕事かもしれないが、探し出すまでは他に任せばいい話だ。
ただあの性格から他に嫌われていて相手にされないのか、それとも他に彼に意図があるのか……。
二人のやりとりを見つめながら、ハニーは忙しなく頭を動かした。
(やっぱり性格が悪いと人が離れていくのかしら?それ以外考えられないわね……。でも……他に意図があるのかも……それは何?あの男が人を使わずにわたしを探す理由は……)
答えの出ない状況が続く。
異端審問官は面倒さを隠しもせず、盛大にため息を吐くと皮肉げに肩を竦めた。その、話をするだけ時間の無駄だと言いたげな態度にハニーも他人事ながらむっとした。
だが、どうやらこの団長さんはかなりの鈍感で人がいいらしい。
普通の人ならこんな小馬鹿にした態度をとられれば、怒りを感じずにはいられないはずだ。
しかし彼は厳つい顔を異端審問官にずいっと向けて、彼の正義を燃やして静かに語りかける。
「司教殿、この森でたった一人というのは大変危険です。もし連れの者とはぐれたのであれば私どもが安全な場所までお送りいたしますぞ」
「余計な気遣いは無用だ。俺は聖域の意志でここにいる」
これ以上は答える気はないとばかりにカイリから視線をはずすと黒衣の異端審問官はハニーに目を向けた。
冷たく、底の知れない瞳が好奇に輝く。
どこまでも澄んだ、冷酷な声が広場に広がった。
「まだ名乗っていなかったな。お前を討つ者の名だ。餞に教えてやろう。――――俺はクワインのサリエ―――。最後の慈悲だ。その穢れた身、血の一雫も残さず消してやるよ」