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掴めぬ真実16

 そこはハニーの知っている世界ではなかった。



 ハニーが最後にこの広間を見たのは、たった数日前だ。

 あの日も白い大理石で設えた広間は赤く染まっていた。


 しかし、今ハニーの目の前にあるのは、もう赤などという色では表せないほど汚れきった、どす黒い血の色だった。

 腐った血の臭いに満ちた空気を吸い込んだ途端、吐き気が込み上げてきた。

 肺はおろか脳髄までその闇に犯されていくような気がした。

 それでもハニーは食い入るように見つめた。

 目を逸らすことなどできるはずがない。

 一瞬でも目を離せば、そのままこの広間を満たす闇に吸い込まれてしまう。

 恐怖に慄く体を叱咤し、ハニーは小刻みに震える身を落ち着かせようと両手で抱き締めた。

 そうでもしないと壊れ掛けの体がバラバラに床に散っていきそうだった。

 闇の中にあっても光を失わない金色の瞳が忙しなくその現状を見極めようと動いた。

 広間の中心、白かったはずの床にはどす黒い血で歪な円が大きく描かれていた。

 複雑怪奇で幾何学もようの円からは禍々しい気配が立ち込めている。

 その紋様の上に置かれた蝋燭の火がゆらゆら揺らめいて、その広間の全貌を浮かび上がらせていた。

 天井では傀儡と化した丸い燭台シャンデリアが骸のように浮かんでいる。

 思いもしない光景に足が竦み、それ以上中に入ることを本能が拒んだ。

 言い知れない恐怖を飲み込むには、あまりにもひどい惨状だった。

 重く深い感情がハニーの腹の底に落ちる。

 全てを置き去りにして、ただ目の前の光景がハニーを闇へと彼女を導く。

 広間の端には白いものが打ち捨てられていた。

 血で汚れ薄汚いそれが人であると気付くまでかなりの時間を要した。


「……ぁあ……まさか…………」


 ハニーは絶句し、扉に凭れかかった。

 一瞬の内に体中の躍動する生の熱さを奪われた気がした。

 ここは狂っている。そう認めざるを得ない。

 薄汚れた白を纏っている肉の塊が誰なのか。

 そんなものは分かり切っている。

 それはエクロ=カナンの癒しと呼ばれた人格者――大司教ハールート・マールートのなれの果てだった。

 かつて誰からも敬われ、賞賛されていた男がまるで物のようにそこに存在していた。

 ハールートの側にある紋様が何で描かれたのか想像に難くなかった。

 ハールートの血だ。

 その肉塊にはもう一滴の血すら残っていないのだろう。

 熟れた果実のように潰れ、萎びていた。

 ハニーは自分が踏みしめている地面が突如割れ、奈落に叩き落とされた気がした。

 全てが壊れ、自分が自分でなくなっていく。

 それでもなんとか一縷の自我を保ち、ハニーは広間の奥を睨みつけた。

 全ての憎悪がその一点に注がれ、闇を切り裂かんとする。

 だがその睨みを愛おしげに受け止めると、広間の奥にいた男はせせら笑った。


「お帰り、血に濡れた女王…………。君を待っていたんだ」


 そう、闇の中心にいる男は無感情に鷹揚と告げた。

 少し高くどこか硬質な響きを持つ声。

 儚げで線の細い体躯。

 まるで光の糸のような眩い白銀の髪―――でも、いつもの憂いを帯びた高潔な顔はそこにはない。

 一瞬誰だろうと躊躇してしまうほど変わり果てた顔は、暗闇に凍てついていた。

 感情も心も何も存在しないような冷めた顔にハニーは射すくめられ、言葉を失った。

 胸に込み上げる感情を絶望というのだろうか。

 こんな裏切りが待ち受けているなど誰が想像しただろう。

 しんしんと降り積もる雪のように優しい狂気はハニーの感覚を奪っていく。

 いつも硬質な顔が、揺らめいた蝋燭の影を受けて妖しく浮かび上がる。

 妖艶な笑みは今まで見たことないほどに美しい。

 姉に似て非なる魅力に飲み込まれそうになる。

 広間の奥、たった一つ置かれた玉座に悠然と腰かけ、黒幕は彼女を見据えた。

 その側にはいつもの侍従が卒のない態度で眼を伏せて控えている。


「なん…で………?」


 声が震えた。

 手足に言い知れない痺れが走り、胸が締め付けられる。

 何故と問いながらハニーはその先を聞くことを拒んでいた。

 頼りない細木に縋るように、ハニーは目で全てを否定した。

 だが対する悪意はあまりにも優雅に微笑み、ハニーの全てを凌駕する。


「なんで?決まってるじゃないか。全部、姉さんのためさ」


 艶やかに微笑んだ彼は不思議そうに首を傾げた。そして愛おしそうに澱んだ青の瞳を歪な円の中心に向ける。


「ねぇ、もうすぐだよ。もうすぐ楽にしてあげるからね。レモリー姉さん」


 そう言って、黒幕――ウヴァルは目を細める。

 彼の見つめる先、円の中心に組されていたのは、純白のドレスに身を包んだ儚いまでに繊細な顔だちの女性である。

 エクロ=カナンらしい、胸元にポイントを置いたしっとりと体を包むドレスに滑らかな肢体を包んだ妙齢の女性は固く瞼を閉じている。

 どす黒い血の上に寝かされてもなお、失われない美貌は時を止めたかのように固い。

 血の気の引いた肌に月のように煌めく白銀の髪がかかっている。

 か細い手を胸の上で組んで寝かされているその美しい人にハニーは息を飲んだ。

 全身から一気に血の気が引いていく。

 もう何の言葉も浮かばない。 

 胸の中で激しい感情がとぐろを巻く。

 それは、何度も何度も名前を呼び続けた人。

 それはずっと追い求めていた大切な人。



「エルゥゥゥゥゥゥゥウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」



 かつて月の女王と謳われたこの国の女王―――レモリー・カナンだった。



 突き上げる衝撃のままハニーは慟哭の声を上げ、その場に崩れた。

 その背を追い立てるように無情な運命の扉が激しい音を立てて閉まった。

 もうハニーに逃げ場はない。

 だが、もうそんなことはどうでもよかった。

 ハニーの見つめるものは誰よりも大切な友人だけ。

 もう他には何も見えない。

 乾いた音を上げ、ハニーの心を覆っていた仮面が罅割れた。

 そのまま千々に壊れ、闇の中に落ちていく。

 血に濡れた女王はその役目を終え、そして今、二人を分った運命がひとつになった。

 今、この惨劇の場に立ち竦むのは、女王でも何でもないただのいたいけな乙女。

 隣国ウォルセレンの王女にして、聖域に認められた聖女マリス・ステラ殿下―――親しいものから愛の天使にあやかってハニエルと呼ばれる、レモリー・カナン唯一の友であった。



 親友を守るため、そして自分の愛する国を守るために、自らの胸に刃を刺して血の海に伏したエクロ=カナンの女王。

 そしてその女王の失われた真実を取り戻す為にあえて血に濡れた女王を演じたウォルセレンの王女。

 二人の交錯した運命がまた混じり合い、そして物語は終焉に向かう。

 固い絆で結ばれた二人の乙女を待ち受けているのは、果たして天使か、悪魔か――。



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