掴めぬ真実10
悪魔などいない。
カンザスはそれを知っている。
それでもそう表現せざるを得ない。
あのいたいけな赤髪の乙女が悪魔の女王ならば、この世の全ては悪だ。
そうまで思ったカンザスは今、真の悪の王と出会った。
地獄の主だ。
それが一番相応しい名だ。
悪魔の女王などという通り名は所詮、地獄を知らぬ者の甘言だ。
禍々しい者に向ける剣先が小刻みに震える。
これはただの嫌悪感だと自分に嘘を吐いても、体の芯からくる震えは治まらない。
どうすればいいだろうか。
心から恐怖を感じる相手に剣を向けたことなど今まで一度たりともなかった。
だが、剣を向けなければ確実に己が殺される。
向けるしかない。しかしそれすら無謀な賭けである。
(それでもやらなアカン……あの男の向こうにあの子がいてるなら……)
小さく息を吐き、瞳を閉じる。その瞳に映るのは真っ直ぐに自分を見つめる金色の瞳の乙女だった。
彼女は何も言わない。ただ力強い視線で真っ直ぐにカンザスを見据える。
それがいつの光景なのかカンザスには分からなかった。
光輝く金色の瞳があまりにも鮮烈過ぎて、周りの風景が白く霞んで見える。
白い空間の真ん中に佇み、赤髪の乙女は視線のみでカンザスに語りかける。
その視線に射抜かれ、カンザスの胸が大きく跳ねた。
この胸のざわめきは不安などではない。
何かがカンザスの中で変わる合図だった。
一瞬体中が燃え尽き、そしてまた元通りにカンザスを構築する。
しかしもうそこにかつてのカンザスを構成する物はない。
全てが一新され、自分でも分からない自分がそこにいた。
カッと勢いよく目を開き、目の前に広がる虚無を睨みつける。
カンザスは自分を叱咤鼓舞し、剣の柄を力強く握りしめた。
「あれが悪ならば、討たん理由はない―――」
そう言いきった。その思いに何の偽りもない。
だが、恐怖を感じるのはまた別の話だ。
全てが一新されたように思えてもカンザスはカンザス。
自分とは相容れないものに対する嫌悪感や本能からの恐怖心は拭えない。
握りしめた剣先が小刻みに震える。
その手の上にそっとアクラスの手が重なる。冷ややかな手だった。
しかしカンザスには慣れ親しんだ手だ。
その手が緊張に己の身を固くするカンザスの神経をそっと緩めてくれた。
「カンちゃん、あれは悪魔なんかじゃない。ただ……操られた哀れな人形だ。きっと意思もない。それともカンちゃん、あんな木偶の坊が怖いなんて言うのかい?」
清かな水のせせらぎのような声だった。
カンザスが弾かれたように顔を上げると、いつも通りの絶妙な笑顔と目が合った。
余裕に満ちた瞳はカンザスを小馬鹿にしたように見つめてくる。
この顔をすればカンザスが激昂して、常の気の強さを発揮すると思っているのだろう。
悔しいが、今は彼のその思惑に乗るしかない。
「……ざけんなっ!あんなんオレの手にかかれば一瞬で……」
「はいはいっ。なら、おれの手にかかっても一瞬だろう?なんたっておれは聖域の枢機卿の近衛兵団の分隊長。カンちゃんはただの衛兵」
自分とカンザスを交互に指さすと、有無を言わせない壮絶な笑みを向けてくる。その言葉の強さに思わずカンザスは言葉を失った。だが、こんなところで言い包められる訳にいかない。
「それとこれとは別の話や!こんな下らんこと言ってる暇はない。オレの合図でお前はあっちへ飛……」
だがカンザスが全てを言い終わる前に、アクラスは握りしめたカンザスの手を押し込めるようにして更に一歩前に出た。
「却下。言葉を変えるよ。おれ一人でなんとか出来る。でもカンちゃんに周りをチョロチョロされたら、邪魔で仕方ない。だから先に行っててくれるかな?おれはすぐに後を追うから……」
「お前……」
縋るように自分を見つめてくる困りきったペリドットの瞳をもう一度見たくて、アクラスは振り向いた。
困惑に揺れる瞳にもう一度微笑んでやる。
どうすれば彼はこの場を自分に任せて立ち去ってくれるだろうか。
自分を心配してくれうる生温かな感覚がこそばゆく、立ち去ってほしいのにもっと見つめてほしいと相反する思いにアクラスは苦笑した。
ふと悪戯を思いついたように、にっと口の端を上げてみせる。
「カンちゃん、おれを舐めたらあかんで?あんたの従者はこんなところでへばってるほど暇やないねん」
「へたくそ……」
まるで泣くのを我慢しているかのように険しく顰められた顔を下に向け、カンザスは言い捨てた。
そのままそっぽを向く。
なんでアクラスはカンザスが同じ場所に立つことを厭うのだろう。
それほどまでに自分は頼りないのだろうか。
確かにアクラスの剣技にも冷静な思考回路にも視野の広さにも自分は劣っていて、足を引っ張る以外出来ないだろう。
悔しいがそれが現実だ。
だがそんな現実を超えてみせる実力が自分の中に眠っているとカンザスは信じていた。
だから、どうかそんな見捨てるようなことは言わないでほしい。そう切に願った。
悔しげに唇を噛みしめるカンザスを優しく見下ろし、アクラスは切り札を切った。
「カンちゃん、君には君にしかできないことがあるだろう?」
「はぁ?何を言って………」
「あの子がこの城にいるんだろ?なら、剣の一つも持たないあの子は今頃どうなっているだろう?」
静かな声にカンザスは弾かれたように後ろを振り返った。
三つの口を開く闇が舌舐めずりしたように蠢いた。
途端、カンザスの胸が荒れ狂う。
なのに熱さは一切ない。
体の芯を撫でる冷やかさに手足が絡め取られる。
カンザスは咄嗟に自分を責めた。アクラスの言う通りだ。
なのに、何故今までその事実に気付かなかったのだろう。
あの赤い髪の乙女がこの城にいると確信したのは自分だ。
あの子は確かにここにいる。
だがカンザスに出会った時も身一つだった彼女が、あんな化け物が跋扈する城にいて無事な訳がない。
逸る気持ちがカンザスの胸を二つに裂いた。
アクラスをこの化け物の前に一人にするか、それとも城の何処かで別の闇に襲われるあの乙女を見捨てるか。
選べない選択にカンザスは揺れ惑った。
そんなカンザスを慈しむように叡知を湛えた瞳が柔らかく微笑む。
だから、先に行けよ……そう強い視線が言葉なく告げる。
その常に変わらないゆとりはどこから来るのだろう。
いつだってアクラスはカンザスのことを一番に考え、そしてちょっと小馬鹿にしてカンザスの最善の道を歩ませてくれる。
そこまで自分を大事に思って先に行かせようとする彼の意思に報いず、ここで無意味に虚勢を張ることは果たして最善の選択なのだろうか。
そして、あの乙女と巡り合う運命を無意味に放棄することが………。
カンザスは剣の柄をギュっと握りしめた。
「負けたらホンマに承知せんぞ!」
「御意!」
フッと笑みを含んだ吐息が零れた。それが返事だった。
カンザスは素早くアクラスに背を向け、真ん中の通路に向かって駆け出した。
後ろを振り向く訳にはいかなかった。それは従者との約束を違えることだ。
彼は一度カンザスの為と決めたことには、梃子でも動かない。
そして絶対にその使命に違えないこともカンザスは知っている。
アクラスが一人で大丈夫というのだから、それは絶対だ。
それでも自分の為に戦う従者を思わずにはいられない。
カンザスは闇の中を疾走したしながら、拳を握った。
(絶対にオレのところに来いっ!アクラス!!)