掴めぬ真実9
「気が進まないな~」
やれやれと被りを振ると、アクラスは立ち上がった。
下から見下すように顔を傾かせ、塊が飛んできた方に目をやる。
その目には先ほどの穏やかさはない。
猛禽類のそれを思わせる獰猛な狂気を孕んでいる。
何も見えない闇の先に獲物を捉えた狩人は、不敵に口端をあげた。
アクラスが見つめる先、三本の廊下の一番右からズリッ…ズリッ……と何か重たいものを引き摺る音が聞こえてくる。
思わず耳を塞ぎたくなるほど不快な音が石の広間に反響する。
近付く度にその禍々しい気配が濃度を増し、息苦しくなる。
まるで地獄の釜の蓋が開いたかのような瘴気だ。
この時、カンザスは初めてアクラスが引きとめた意味が分かった気がした。
だが、それでもカンザスは自身の選んだ道を違える訳にいかなかった。
アクラスの服の裾を強く掴み、カンザスは声を張り上げた。
ペリドットの瞳をつり上げ、真剣にアクラスを見つめる。
「おいっ!人間を簡単に吹き飛ばすような奴やぞ!ここは卑怯やけど二人で挟み撃ちに……」
「カンちゃん」
その激情を静かに宥めるようにアクラスがカンザスを振り向き、優美に微笑む。
「なっ……」
あまりにも柔らかく、そして颯爽とした顔にカンザスは言葉を失った。
何故こんなに緊迫した状況で彼はこんなにも穏やかに微笑むことができるのだろう。
それは一瞬のことだ。すぐにアクラスはカンザスに背を向け、地獄の底から這い上がってきた魔物の足音がする方へと視線を向け、一歩踏み出した。
薄暗い広間で燭台の炎が頼りなげに揺れ、闇の向こうに姿を見せたおぞましい瘴気の正体を浮かびあがらせる。
アクラスが見上げるほどの長身に、鍛え抜かれた屈強な体躯。
輪郭しか分からない。
だが、それが戦士の中の戦士であると簡単に見て取れた。
纏う瘴気すら砕かんばかりの猛々しい姿に城の空気が震えている。
「カンちゃん、ここはおれに任せろよ。カンちゃんは先に進まなきゃならないだろ?」
歌でも歌い出しそうなほど軽やかな声だった。
カンザスに背を向けたまま、アクラスは髪を掻きあげ、自分の腰に手を当てた。
まるで物見遊山に来たような気軽さで、向こうからくる禍々しいものを興味本位に見つめている。
「なっ……何、ふざけたこと言ってんねん!」
アクラスの背を睨みながら、カンザスはその背に掴みかかった。
何故ここで彼がこんなことを言うのか理解できなかった。
いや、アクラスが誰よりも主人思いなのは誰よりも知っている。
こういう状況に追い込まれたら彼がその手段を迷わず選ぶのも客観的に納得できる。
でもそれでも簡単に納得などしたくなかった。
受け入れる訳にいかなかった。
握りしめた拳がブルブルと震える。
そんなカンザスを僅かに振り返り、アクラスはひょいっと肩を竦ませた。
言いだしたら聞かない駄々っ子を言い諭すように実に穏やかに彼は言葉を紡ぐ。
まるで笑いながら泣いているような顔は、満ち足りた幸福を噛みしめているように見えた。
「カンちゃんこそ。こんなところで立ち止まっている間に、見極める真実を失うぜ?」
「何言ってんねん!オレはお前を失う訳にはいかんのや!」
言うが早いか、カンザスは握りしめた拳を力任せに振り解き、腰に佩いた剣に手をかけた。
空気を切り裂くような敏捷さで抜き放ち、その切っ先を闇にいる魔物へと向けた。
「オレの力を見縊んな!」
力の限り叫ぶとアクラスの横に並ぶ。
その足は僅かに震えていた。
だが、その瞳は燃え上がる闘志で光り輝いている。
そんなアンバランスな姿を横目で見つめ、アクラスはクスッと口の端を押し上げた。
(強がっちゃって………)
アクラスは冷静なアメジストの瞳をカンザスから未だ闇に溶けた魔物に移した。
魔物はあんなにも剛速で人一人投げつけることができるのに、その歩みはとても遅かった。
ズリ……ズリ………耳朶に響く嫌な音が大きくなる。
ヒタ……ヒタ……と何も履かれていないと思われる足音が広間にこだまする。
じめっした冷気に支配された広間の温度が更に下がった。
カンザスはハッとそれに意識を奪われ、無意識のうちに体に緊張を走らせた。
今まで幾度も争いの場に身を置いてきたカンザスだ。
それが何なのかは経験で知っている。
その勘で言わせれば、今回は最悪だ。
アシュリなどと比べ物にならない。
確かにアシュリも腕のいい武の者だが、思考や意思がその剣筋に見て取れた。
だが今、カンザスの目の前にいるのは、虚無だ。
それも巨大な虚ろである。
意思も野望も情熱もない。
あるのはただ……残忍な本能のみ―――。
獣の太い足が闇の中からにゅっと姿を現した。
次に逞しい腕が、そして鉄板のような胸板が、徐々に確かな形を取る。
そしてそれは何かを両手にぶら下げ、ゆっくりと闇から抜け出した。
大木のような体躯。引き締まった浅黒い上半身を剥き出しになっており、まるで鉄のような筋肉が隆起している。
白銀の髪は襟首だけが長いらしく、それはその髪を振り乱し、鬼気迫る空気を纏っている。
巨大な体躯の上にあって小さく見える頭はガクリと折れていて、その表情は見えない。
だがカンザスは咄嗟にそれが最早人間と呼ばれる者でないことを悟った。
「なんやあれ……」
答えなどないと知っていても問わずにはいられない。
言い知れない恐怖が足先から競り上がってくる。
カンザスの瞳がそれをなんとか把握しようと、忙しなく動く。だが、答えは何も得られない。
ただ分かったこと、それは魔物が重々しい音ともに引き摺っている物もまたかつて人間だったものであることぐらいだ。
それは両手に既に事切れたエクロ=カナンの兵士を掴んでいた。
もしかしたらこの城門の門番なのかもしれない。
甲冑に身を包んだそれらは重いだろうに、そんなこと一切感じさせない。
無造作にそれを引き摺って、それはカンザスらのいる広間に一歩足を踏み入れた。
それはまだ下を見たままだ。カンザス達のことなどまるで気が付いていないようにゆっくりと突き進んでくる。
まるで城の中を何かを求めて彷徨っているかのようだ。
「あれが悪魔?」
無意識に零れた言葉は、自分でも滑稽なほど場違いな甲高さで広間に響いた。