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掴めぬ真実6

 まるで男女の密事のように濃密な空気が二人を包んでいた。


「…なっ、何を……」

 

 混乱と絶望に乱される思考回路では、そう喘ぐのが精いっぱいだった。

 サリエの指は息をするに苦しく、だが気を失うほど強くない力でハニーの動きを止めていた。

 その腕の中でもがき、ハニーは懸命に息を吸った。

 鈍って澱んだ頭の中に広がった新鮮な空気が、ハニーに冷静さをもたらす。

 一度は困惑と驚愕に揺れていた金色の瞳が本来の強さを取り戻した。サリエの行動を咎めんと鋭く光る。。

 しかしサリエはハニーの睨みすら飲み込もうとしているかのように、更に顔を寄せてくる。

 鼻の頭が擦れんばかりの位置まで降りた顔がハニーの視界を奪う。

 すべらかなハニーの額にサリエの漆黒の髪が落ち、ハニーの淡い赤の髪と混じり合った。

 それはまるで夜明けの空のようだった。

 相容れない色が鬩ぎ合い、当り前のように両立している。

 触れんばかりのサリエの肌から彼の熱が漏れてきて、ハニーの肌を撫でる。

 髪を掻き上げられた耳元に感嘆のような吐息混じりの声が囁かれた。


「言っただろ?俺は異端審問官。どんな姿をとっていようと悪を討つのが仕事だ」


 囁かれた言葉はその声や熱に反して、ひどく冷めていた。

 さも当たり前のように告げられた言葉にハニーは成程と納得した。

 何故だかハニーは恐怖など感じなかった。

 押しかかられているのに、身の危機も何も感じない。

 ドクンドクンと鼓動ばかりが熱せられて、思考がずぶずぶに溶けてしまったかのようだ。

 何も考えられなかった。

 目の前の出来事が現実なのかすら分からない。

 ただただ眼を見張り、迫りくるサリエの美貌を見つめていた。


「どうした?抵抗しないのか?」


 そう囁きながら、サリエはどこまでも麗しく、そして意地の悪い嗤いを浮かべた。

 彼は、その心の内に極上の悪意を孕ませている時ほど優美に微笑む。


「――それとも、もっと熱くて痺れるヤツをお望みか?」


 その表情に彼の心を覗いたような気がして、ハニーは身を強張らせた。

 身の恐怖にではない。

 サリエの真意を悟った本能が、理解を拒んだのだ。

 凍てつく体の中で警鐘を鳴らす鼓動だけが熱い。

 悲しいほど熱い白が頭を覆い、見つめるものすらぼやけてひどく遠くに感じる。

 それでも金色の瞳に映るのは、誰もが見惚れる魅惑の頬笑み。

 普通の女の子ならば腰砕けで気を失ってしまうほどに耽美だ。

 だが真っ直ぐにハニーを見下ろす色違いの双眸は何一つ笑っていない。


(本気なの……?)

 

 金色の瞳が自分を見下ろす漆黒に言葉なく問うた。

 聞かずにはいられなかった。否定して欲しいと心の底から願った。

 だが鮮烈な二色の瞳はギラギラと輝き、ハニーの問いに答える。

 このまま絞め殺すのだと言わんばかりの狂気でもって………。


「……な、なんで……」


 そう呟くのが精いっぱいだった。

 体から力が抜け、よりハニーの細頸にサリエの指が食い込む。

 もう抵抗する気力も湧いてこなかった。言い知れない失望がハニーの感覚を奪う。


(抵抗しなきゃ……)


 頭はそう思うのに、行動が伴わない。

 失望が大きすぎて、頭がうまく回らない。

 彼も悪意の中で戦っているのだと、勝手にシンパシーを感じていた。

 悪魔の瞳を抱えてきた彼ならば、悪魔の女王と呼ばれる自分の立場を誰よりも理解できるだろうと全面的に信じていた。

 それは妄信と呼んでも差し支えないものだったのかもしれない。

 そう思うことで自分を成り立たせようとしていたのかもしれない。

 心なき蔑みに傷つく痛みは同じ傷を抱く者にしか理解されない。

 悪意ある視線に晒される孤独は同じく晒されたものにしか共感されない。

 今までハニーを思ってくれる相手はたくさんいた。

 エルも、ラフィも、キャメルも……みんなハニーのことを心から思い、そしてハニーの為に行動してくれた。

 だがハニーの心を真の意味で理解出来るのは同じ道を歩んだものだけなのだ。

 血の滲む道の辛さは歩んだ者にしか分からない。

 サリエの赤い瞳を見た時、ハニーは全てを悟った。

 彼を置いて他にハニーの心の内を真に共感してくれる者はいないと……。

 そしてようやっと知ったのだ。

 彼の纏う絶望に似た闇は、長い時間をかけて溜め込んだ心の澱みであるのだと。

 その澱みを少しでも薄めることはできないだろうか。そう切実に思った。


 なのに………それは所詮まやかしで、ハニーの願望でしかなかった。

 サリエはハニーの心などお構いなしに、無情の牙でハニーの喉元に噛みついている。

 後少し力を入れるだけでハニーのか細い希望など簡単にへし折られる。

 無性に悲しかった。心にポッカリと穴が開いたようで、身に沁みる木枯らしが吹きすさぶ。

 裏切られた衝撃に、常の気の強さが湧き上がってこなかった。

 強い輝きを忘れない金の瞳に涙が浮かんだ。

 すぅっと細い筋を描き、その清浄な雫が流れていく。

 そしてサリエの細長い指の上で音もなく弾けた。

 その時、一陣の風が駆け抜け、砕けた雫を巻き上げた。


「ぃぃぁぁぁゃゃゃやめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」


「ブンギャ~ッ!」


 甲高い子どもの叫び声と野太い猫の声が、灰色の静寂に沈む室内にこだました。

 瞬間、サリエの腕から力が抜け、瞬敏な動きで声の方を振り返った。

 ハニーはそのサリエの後頭部を追うように、定まらない視線を彷徨わせた。

 何が起きたのか、うまく判断できなかった。

 だが息苦しさから解放され、徐々に思考が巡っていく。


(何かしら?)


 まるで他人事のように視線を上げた先で、ハニーは思いもよらぬ光景を目にした。

 薄闇を切り裂くように突如飛び出してきた毛玉が、吸いつくようにサリエの顔面にぶつかったのだ。

 あまりの勢いにサリエがバランスを崩し、ベッドの下に転がっていく。

 ガチャン、ドサドサッ―――と盛大な音が上がり、瞬く間に静寂の室内を騒々しい狂想曲に塗り替えていく。


「フンギャギャギャッ!ウニャ~ッ!!!」


「なっ、何だ、これはっ?」


 ベッドの下から、ガリガリと何かを引っ掻くような鋭い音と、奇妙な鳴き声、そして何だか情けないサリエの声が聞こえてきた。

 度肝を抜かれてしまい、ハニーは動くことができなかった。

 それでも音だけのやり取りに引かれるように、ベッドの下に視線を落とし、更に驚愕した。

 ぽかんと口を開け、ベッドの下で繰り広げられている奇妙な光景を見つめた。


「うそ………」


 あの冷酷な異端審問間が、猫と戯れている……。

 それは一種異様な光景で、笑いさえも沸いてこないほど衝撃だった。

 顔面にデブッと肥えた猫を乗せたまま、サリエが必死に猫と格闘していた。

 あまりの巨体で顔面を圧迫されると、流石のサリエも簡単に取り除けないらしい。

 今の間に逃げ出すのが常識だろう。

 しかしハニーの目はサリエに釘付けになっていた。

 そんなハニーの肩を何かが激しく引いた。

 驚きに身を固くし、弾かれたようにハニーは振り向く。

 その視線の先にいたのは、今までおっとりとした顔以外見たことのない小さな王子がいた。

 丸い瞳を懸命につり上げ、使命感に燃え上がっている。

 彼は素早くハニーの腕を掴むと、力一杯に引っ張った。


「こっちに逃げて!」


「キアス!」


 まさか三姉弟の中で一番引っ込み思案で甘えたなこの王子に助けられるなどハニーは思いもよらず、二、三回瞬いた。

 だが、今は戸惑っている時ではないと悟り、跳ねるようにベッドから飛び降りた。

 ベッドの下ではまだ、猫の唸る声がする。

 キアスはハニーの腕を掴みながら、激しく客間の扉を開いた。

 二人の頼りなげな影が懸命に二人の背を負っていく。

 そのまま勢いを衰えさすことなく、二人は部屋の外へと駆けだした。

 ハニーは扉を出る寸前、先ほどまで自分を殺そうとしていた漆黒の男を見返した。

 だが彼の姿はベッドの向こうに隠れている。


「サリエ――――………」


「早く!」


 心残りが部屋の中にあるようなハニーの声を遮るようにキアスが声を鋭くして、ハニーの腕を引いた。

 キアスの白銀の髪が廊下に飾られている燭台の炎に照らされ、眩しく照り返る。

 その明るさを見つめながら、ハニーはあの神殿でエルに手を引かれながら駆けたことを思い出した。

 あの時も無我夢中で、背中に迫ってくる者が怖くて、でも繋がれた手だけは信じることが出来た。

 今、ハニーの手を掴んで先を導くキアスの姿にエルが重なり、ハニーは胸を締め付けられた。

 キアスと触れ合っている部分が痛いほどに熱い。

 ただ、エルと違って、キアスはとんでもなく無謀な作戦に出た。

 バタバタッと盛大な足音を立て、これでもかと大騒ぎしながら長い廊下を駆け出していく。

 走り抜ける二人に廊下の端にいた騎士達が驚いたように目を剥き、そしてハニーが何者かに気が付くと手にした剣を向けて迫ってくる。


「ちょっと、キアス!これは目立ちすぎだから!」


 ただ逃げるだけ。

 確かに警戒中の騎士の圧倒して度肝を抜くことには成功しただろうが、もうすでに後ろにいる騎士たちに追いつかれそうなピンチに至っている。

 流石のハニーも呆れるほど無茶な逃走である。

 しかし使命に燃えたキアスはいつになく必死にハニーの手を引いて走った。


「ぼくだって、おねえちゃまを助けるんだ!」

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