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掴めぬ真実4

 それは誰にもどうすることもできないほど、些細な偶然が折り重なって起きた悲劇であった。

 無意識とはいえハニーの手は、誰も触れることのできない領域に立ち入り、そして黒の封印を解いてしまったのだ。

 サリエの左目から飛び立った黒がハニーの手に押し上げられ、天高く舞い上がる。

 薄ぼんやりと闇に浮かぶのはハニーとサリエだけ。

 後は全て闇に沈み、ただ息を押し殺して、見つめ合う二人の様子を遠巻きに見守っている。

 零れた息すら時を止め、薄闇の空間が凍りつく。

 頭をガンガンと揺さぶるような鼓動だけが、ハニーの冷え切った体に熱を与える。

 あまりの熱さに目の前で起こった出来事がうまく頭に入ってこない。

 それでもハニーの体は、目を背けることを許さない。

 食い入るように真っ直ぐと前を見据え、時の止まった部屋で唯一、優雅に舞う黒を見つめた。

 はらり、はらり………。

 まるで散りゆく花弁のようにゆったりと黒い封印が二人の間を舞う。

 サリエの左目を守る使命を失ったそれはハニーの心を焦らすように、ハニーの瞳をもっと惹きつけるように、もどかしいほどゆっくりと時を撫でるように流れ落ちていく

 そして、ぱさりと妙に乾いた音をたて、床に落ちた。

 耳が痺れるほどの静寂が辺りを支配した。

 薄闇の中、遠くから届く頼りなげな松明の炎に、床に落ちた二つの影の形を変えていく。

 その間、ずっとハニーはサリエの顔を見つめていた。

 まるで魔法にかかったかのように、その麗しい氷の美貌から目を逸らすこともできない。

 舞い落ちたものがサリエの左目に常にあった眼帯であるなど、この時のハニーにはまったく分からなかった。

 いや、もう何も考えられなかった。

 ハニーには今何が起きているのかすら、いや、もしかすればこの時ばかりはあの熱い使命感すら思考の彼方に飛ばしてしまっていたのかもしれない。

 ただ出来るのは、目を開き、目の前にある驚異を見つめることだけだった。


「真っ赤な瞳……」 


 押し殺したように、やっとそれだけ発することが出来た。それ以外に何の言葉も浮かばない。

 そこにあるのは闇のような黒い瞳ではない。

 闇の中にあってくすむことなく、むしろそれ自体が輝いているのではと思えるほど鮮烈な赤い瞳だった。

 その瞳に射抜くように見つめられ、ハニーの心臓は鼓動の音すら凍り付き、もう体の感覚もない。

 例えるなら、そう―――紅蓮の炎だ。煌々と燃え上がる太陽のように圧倒的で、全てを焼き尽くす業火よりも恐ろしい。

 心を掻き乱す魅惑の赤は、けして人の手で作り出せないほどに鮮やかで、恐ろしいはずなのに泣きだしたいほどに美しかった。

 ハニーは戦慄した。

 抗っても目を逸らすこともかなわない。

 深い深い赤の奥底に引き込まれていく。

 永遠に続く二人の世界は突如破られた。

 呆然とサリエの顔を見つめるハニーを彼は乱暴に突き放し、彼女に背を向けたのだ。

 よろめくハニーの目の前で、黒いマントが翻る。

 途端、張りつめた部屋の時間が動き出した。

 見つめ合っていたのは、きっと瞬きよりも短な間だった。

 でもそれでも見つめ合うには充分な時間である。

 ハニーは知ってしまったのだ。

 美しくも恐ろしい異端審問官が抱える永遠の闇―――悪魔の瞳の正体を。

 黒いマントがサリエの背で波打つように頼りなげに揺れている。

 ハニーはよろめきながら、その背を見つめた。

 どうしてか非難の声も出てこなかった。

 まだ心があの瞳に吸い込まれたままだったのかもしれない。

 サリエはハニーに背を向けたまま、抑揚なく告げた。


「よかったな。……悪魔の瞳を見て立っていられるのは真の勇者だったか?」


 固い声音だった。

 そう呟いた黒い背中が何故だか悲しい色に見えた。

 まるで永遠に凍りついた孤独に震え、懸命に耐えているようだ。

 あの一度目にしたら、心に焼きついて離れない焔のような瞳とは非なる色にハニーは全てを悟った。


(ああ……彼はこの眼に苦しんでいるんだ)


 悪魔の瞳の正体は、哀れな運命を背負った男の素顔だった。

 色の違う双眸――それは一人で背負うにはあまりにも重い業だ。

 彼は生まれた時からその瞳に翻弄されてきたのかもしれない。

 何故自分が彼の瞳を見ても、無事に立っていられるのか、ハニーには皆目検討もつかなかった。

 以前、彼がその瞳を晒した時、アンダルシアの騎士達が震え上がって次々に失神してしまった。

 それは側で見ていても、異様で恐ろしい光景だった。

 あの時ハニーは彼を詰りながらも、その瞳を見るのが怖くて仕方なかった。

 でも恐れていた瞳は、地にあるどの赤よりも赤く、人の心を惹きつけてやまない天上の焔の色をしている。

 美しいと息を飲む以外、ハニーの体に異常はない。

 前回と今回、何かが違うのだろうか。状況によって何かが変わるのだろうか。

 ただ分かるのは今、悪魔の瞳を見つめても普段通りに立っている自分がいることだ。

 ハニーの心に恐怖はなかった。

 もしかしたら、次の瞬間には泡を吹いて倒れてしまうかもしれない。

 それでも彼の背から視線を背けることができなかった。

 ドクンドクンと心臓が跳ねる。けれどこの鼓動の高鳴りは危険に対する警鐘ではない。

 きっと同じ痛みを受けた者同士にしか分からない心の共鳴だ。

 一時逡巡していたが、ハニーは意をけっして、その凍りついた孤独な背にそっと手を伸ばしてみた。

 恐る恐る、サリエの発する殺気のような禍々しい気配に躊躇しながら、それでもハニーは手を引くことはなかった。

 長い時間をかけて行き着いた指先がサリエの広い背に僅かに触れる。

 抱き締められた時はあんなにも熱を帯びていたのに、彼の背はひどく冷たい。

 長い間に受けた傷が彼の心を凍てつかせたのだろうか。

 そう思うと胸が痛かった。


「何だ?」


 手で瞳を隠したまま、サリエは凍てつく声で問う。

 けしてハニーの方を振り向かない。今までの嫌味な彼はどこにいったのか。

 ひどく無機質な声が闇に溶けていった。

 何だ、と問われてもハニーには明確な答えがなかった。

 何故だか触れたくてしかたなかった。そっとなぞる様に指を添わせた。

 それでも足りずにもっと彼に触れたいと思った。


(触れたいのはきっと体じゃない。彼が抱える心の闇―――)


 ハニーは一拍、間を置くとふぅっと息を吐いた。

 そのまま真っ直ぐにサリエの背を見つめたまま、抑揚なく口を開いた。

 一つになった影が不穏な空気を察したように身を震わせる。


「どうやら、その瞳には悪魔はいないようね?」


 この国に元から悪魔がいないように、彼の瞳にも悪魔など始めからいない。

 ハニーは彼があの崖の上で神など信じないと言った訳が、今やっと分かった気がした。

 あの時はなんと傲岸不遜で、人でなしな男なのだろうと思ったものだ。

 だが今なら分かる。

 彼がどんな気持ちで神を否定したのか。

 いくら祈っても、状況を変えてくれない神など神ではない。

 むしろ始めから神などいないと思っていたほうが楽である。

 神の右手が悪魔の左手であるならば、対なる存在のどちらかを否定すればもう片方も消える。

 少し悲しげな笑みを浮かべて、ハニーは冷めた顔の裏側を見つめた。

 灰色の光に照らされた肌からは生気が感じられない。

 なのに触れるマントの向こうに燃え上がるほど熱い彼の熱を感じる。


「―――いいえ、始めから悪魔なんてどこにも存在しないのよ」


 そう、悪魔はもう千年以上も昔に地獄へと封印されている。

 悪魔などこの世にはいない。

 なら、今人々の口に上がる悪魔とはなんなのだろう。

 悪魔じゃない悪魔―――それは他者に理解できないものにつけられた、都合のよい呼び名なのかもしれない。

 他者の心に巣食う負の感情を逆撫ですることに便宜上名づけられたもの。

 そう、悪魔の女王も、悪魔の瞳も、そして悪魔のフォークロアも………。

 全て一般に理解されないことを、人が理解できるように名前をつけられた結果に過ぎない。

 悪魔という名で自分達の見えない恐怖に名前を付けたり、自分の欲の捌け口にその名を使っているだけ。

 なんて深い悲しみを内包した言葉なのだろう。

 でもそれは呼ばれる側にしか分からない真実。

 表からその事象を見つめる人にとっては、恐怖を掻き立てるものでしかない。

 『悪魔』という言葉を聞き、そこに悪魔の姿を見る者とは永遠に分かりあえないのかもしれない。

 そう、それはまるでメビウスの輪の上で互いを求めて走り合っているかのように、無意味なことだ。

 サリエはその無限に続く輪に走り疲れ、いつの間にか輪の外から外れていったのだろうか。

 いや、そもそも彼は他者の理解など求めていない。

 ゴールのない輪など初めらか歯牙にもかけなかったのかもしれない。

 そして彼は自らの意思で、見惚れるほど気高く茨の荒野を闊歩していく。

 それは屈強な精神力なくしてありえないことだ。

 対するハニーは未だ輪の上で、真実を追い求め掛け続けている。

 それが無意味であると言われようと、この勝負から降りる訳にいかなかった。

 ハニーには待ってくれている者がいるのだ。

 ハニーのことを自分のことのように思ってくれる者がいる。

 だから………。

 

(見たこともない悪魔に怖がり、あまつさえ縋ろうなんて間違ってる)


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